【笑うということは、最も簡単な成功法】
表面をつくるということは、内部を改良する一種の方法である。 ー 夏目漱石
目尻がやや下がりぎみという顔だちのせいもあるのだろうが、よく「先生は忙しいのに、いつもニコニコ楽しそうだ」といわれることがある。
著者も感情をもつ人間である。
イヤなこともあれば、腹の立つこともある。
心配事も数かぎりなくある。
だが、私は、ある経験から、できるだけニコニコ顔でいこうと決意したのだ。
著者の父・斎藤茂吉は歌人として名をはせたが、本業はあくまでも精神科の医者。
都内有数の規模を誇った青山脳病院の後継者であった。
都内有数の規模と書いたのはけっして自慢したいからではない。
大病院を維持するのは、昔もいまもなかなか難儀なこなのだ。
私自身、その重みに長いこと耐えてきたから、誰よりもよくわかる。
しかも茂吉は養子だったから、なんとしても先代の築いた栄光を汚すことはできない。
その反動か、茂吉はいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
おまけに癇癪(かんしゃく)もちだったから、家族一同いつもピリピリしていて、家の中も病院も、けっして穏やかで心地よいとはいえなかった。
子ども心にも私は「それではいけない」と考えていた。
それで、自分が一家の長や院長という立場に立つようになってからは、いつもニコニコ顔でいようと心に決めたのだ。
コンチクショーと思うようなときも、あえて唇の端を引いて、無理にでもニコッと笑ってみる。
そうすると、さっきまで腹を立てていた自分がバカバカしく思えてきて、ニコニコ顔が定着する。
顔で笑って心で泣いているうちに、心まで笑ってくるという経験を毎日のように重ねてきた。
ニコニコ顔の効用は、相手を快くさせることはかりではない。
笑顔を心がけているうちに、自分自身の心までときはぐされてくるのだ。
笑いには脳の活動を高める効果があることは生理的にも実証されている。
病院寄席を開き、患者さんの治療に役立てている病院もある。
私のニコニコ顔は、精神科医として身につけた、いわば、プロのニコニコ顔でもある。
看護師やヘルパーなど、お客さま相手のさまざまな仕事にも笑顔のプロがいる。
それを見習うのも一法だ。
泣く時は一人だが、笑えば世界も一緒に笑う。 - エラ・ウィラー・ウィルコックス
「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」
これはアメリカの実践心理学許ウィリアム・ジェームスが提唱している有名な説である。
大しておもしろくない場面で、義理で笑い声を立てたりしているうちに、なんだか楽しくなってきたという経験は誰にもあると思う。
知人のAさんは、スタッフ5人程度の小さな企画会社を経営している。
この規模だと、社長Aさんの機嫌はたちどころに社員全員に伝わってしまう。
Aさんがいつも仏頂面をしていれば、社員全員が落ち込んでしまう。
企画にもそれが反映され、元気の出る楽しいプランは生まれない。
そこでAさんは玄関先に鏡を置き、毎朝、出かけるときに表情チェックをするようにした。
鏡に向かってニコッと笑いかけてから家を出る習慣をつけたのだ。
すると、不思議なもので、玄関先でニコッと笑うだけで、その日一日を笑顔で過ごせるようになったという。
「目の前で急行電車が行ってしまったというときなど、以前は『ああ、悔やしい』とムシャクシャしたものですが、いまでは、次の鈍行なら隣の駅からあのかわいいコが乗ってくるかもしれないなんて、余裕ですよ」とニコニコ顔でいう。
笑顔の効用に男女の別はない。
しかし、私の感じでは、女性のニコニコ顔にはとりわけ人を魅了する力かあるようだ。
彼氏がほしい方は、お化粧を念入りにするのも悪くないが、いい笑顔を身につける努力をしたほうがずっとよい。
【人にほめられる人よりも、人をほめられる人が賢者】
人間、ヒマになると悪口をいうようになります。悪口をいわない程度の忙しさは必要です。 ー 永六輔『職人』
上司や得意先の悪口をいいながら、ついつい飲みすぎてしまった翌日は、気分がすっきりしない。
これを、酒を飲みすぎた二日酔いのせいだと思い違いしていないだろうか。
多くの場合は、悪口の二日酔いである。
他人の悪口は両刃の剣。
相手にとって不快なだけでなく、悪口をいった本人にもイヤな後味が残ってしまうものなのだ。
どんな人にも欠点がある。
だが、それをあげつらう自分はどうだろう。
今こうして人の悪口をいっている自分はイヤなヤツではないのか。
複数の人間で悪口をいい合うのはさらによくない。
あなたは、いい合った相手を、その後も絶対的に信用できるだろうか。
私は「いまは自分の言葉にあいづちを、打っているけれど、席が変われば、今度はオレの悪口にあいづちを打つのではないか」とい疑心暗鬼にかられ、相手を信用できなくなってしまう。
誰かか失敗したなら、その本人を入れて、失敗の原因について大いに語り合ったほうがよい。
このとき、間違っても相手の人格や人となりを攻撃しないこと。
失敗と人格はまったく別次元の話だ。
第一、失敗した場合はすぐに善後策を検討すべきであり、人の悪口をいっているヒマはない。
できれば、失敗をした場合さえも、人はできるだけほめるほうがよい。
誰だってほめられてイヤな人間はいない。
それどころか、ほめられているうちに自信がよみがえり、その自信が新たなやる気を引き起こしていくものなのだ。
「今回は失敗に終わったけど着想は素晴らしかったと思うよ」などと言われれば、失敗して落ち込んでいた人も、元気を取り戻す。
新たな勇気が湧いてくる。
ほめ言葉には、相手のやる気を呼び覚ます不思議な力が込められているものです。
ほめ言葉をもらえば、それだけで二か月間、幸せに生きられる ー アメリカの作家 マーク・トゥエーン
【気配りに「今度」という言菓はない】
ひとりで見る夢は夢でしかない。しかし、誰かと見る夢は現実だ。 ー オノ・ヨーコ
私はかねてから「核廃絶運動」を唱えている。
核といっても核兵器の「核」ではなく、核家族の「核」なのだが。
神経科を訪れる患者さんの病状の中には、核家族でなければこうした症状には陥らなかっただろうな、というケースをかなり見かける。
とくに、子どもをめぐるさまざまな異常は、親子、とくに母子の異常接近が根っこにあることが多い。
ビジネス人に多い心身の異常も、過干渉や過保護などが原因として横たわっていることが少なくない。
子か独立して自分の家族をもつ。
これが基本だ。
家族をもつことは、一生分のわずらわしさの種を背負い込むことのようにも見えるが、それに見合うだけの、いや、お釣りがくるほどの喜びを手にすることができる。
なのに、いい年をした子どもがいつまでも親と同居し、経済的な基盤から家事いっさいまでを親に依存してヌクヌクと暮らす例が増えている。
パラサイト(寄生)シングルというやつだ。
まさに親に寄生している生活で、これではいつまでたっても、本当の自分の人生を始めたことにはならないのだと、声を大にしていいたい。
親も、子をパラサイトさせていればなんとなく寂しさをまぎらわせることができるし、子のほうも何かと重宝だ。
こうした癒着した親子関係がいかに不自然で、大きな不幸の種になるものか。
それがわかってからでは手遅れなのだが。
野生の猫の生態を撮影したフィルムを見たことがある。
野生の猫は、子どもかあるところまで成長すると、さっさと親が姿を消す。
あまつさえ、必死に親を探した子どもか近寄ろうとすると、親は歯をむいて子を追い返す。
キタキツネにも同じような習性があるという。
動物界のほうがずっと賢明な子育てをしているわけだ。
親子は、こうして一度、精神的に自立をはかった後、できればスープの冷めない距離に住み、つかず離れずの距離感を保つのが理想的だ。
夫を持ったり、子供を持ったりするたびに、人間の心の眼は開けてゆくものだよ。 ー 川端康成
【チャンスさえくればと思っていると、チャンスはやってこない】
やりたいことを、やれるときにやってしまえ。 ー 食生態学者 西丸震哉
子どものころ、「〇〇する人、この指止まれ」といって、一緒にする人を求め回ったことを覚えているだろうか。
友だちづくりの極意は、まさに「この指止よれ」にあると考えている。
大好きなものを楽しむ仲間を「この指止まれ」と集めてしまえばよい。
著者の場合、旅行作家協会がそれに当たるだろう。
基本的には旅について雑誌の記事や単行本などを書いている人の集まりだが、最近は門戸を広げ、旅好きの人、旅にまつわる仕事を多少でも手がけている方なら、どんどん仲間に受け入れている。
20年以上前の発足当時は、そば屋の二階で旅好きの十数人が集まる程の会だったが、最近ではホテルの会場を借りてパーティーを開くまでに発展してきた。
旅という共通の話題をもった仲間との集まりは実に楽しく、ここで多くの友情が生まれた。
なかには家内公認のガールフレンドもあり、才色兼備の彼女と会い、ワイングラスを傾けながら、当意即妙の会話をかわせることも、このうえない楽しみになっている。
こうした会を自分からつくればいいのだ。
「この指止まれ」の言い出しっぺになるのだ。
最初は何人か集まるだけでいいじゃないか。
次はそれぞれが、さらに新しい仲間を誘ってくる。
こうして仲間の数を増やしていけばよい。
冒頭の金言の主、西丸震哉さんも、旅行作家協会の盟友の一人だ。
彼の家のパーティーの楽しさは抜群で、実にたくみな人選と、それほど凝っているわけではないのに、このうえなくおいしい料理とお酒で、最高の時間をつくってくださる。
欧米ではホームパーティーが新しい友だちづくりの場になることが多い。
知人のパーティーに招いていただいたことがあるが、ワインにチースといった簡単なパーティーもまれではなかった。
ただ、顔ぶれには心を砕き、たいてい新しい出会いが実現するように、自分が核になって、紹介したい人同士を上手に顔ぶれに加えている。
これは知人の友人の例。
彼女は専業主婦のまま年齢を重ね、子どもが巣立ってしまうと日中はほとんど、一人の時間。
そのうち、ご主人が亡くなり、まったくの一人暮らしになってしまった。
気ままにおしゃべりを楽しめる友だちがほしい。
そう思った彼女はマージャンを覚え、毎週土曜日の午後はマージャンデーとし、「マージャンしたい人はいらして」と最初は親しい仲間に声をかけた。
家は広くない。
けれど、いまでは、土曜日の午後の彼女の家は、マージャン好きな人のかっこうのサロンとなっている。
さらに、その仲間から、年に二、三回は旅行に行く友だちも派生して、いまでは彼女は、すっかり「友だち大臣」になっている。
「この指止まれ」は子どもの専売特許ではない。
大人になって仕事を離れた人間関係ができにくい年代になったからこそ使いたい友だちづくりのテクニックだと思う。
こちらか引けば、あちらか入ってくる。
こちらが拒絶すれば、あちらがはねてi飛び出す。
間口を広げれば、それだけたくさんの友が自分の中に入ってくるのである。
↓ 参考書籍
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