【感情のパレット、言葉で綴る旅】 心について

心理・思考・時間


【風景が心に与えるもの】

いつもの自分の生活や仕事の中で、ふと振り返ったり、遠くを眺めたときに、山々や森林の連なりやはるかなる水平線や地平線といった、確固たる安定した線を持っていることはとても大切なことだ。

それらは単なる見慣れた風景にすぎないかもしれない。

けれども、その風景の中にあるしっかりと安定した線が、人間の内面に落ち着きや充足、安堵や深い信頼というものを与えてくれるからだ。

誰でもそのことを本能的に知っているから、窓からの風景を重視したり、セカンドハウスの場所を自然に近いところに選んでいるのだ。

【日々の歴史をつくる】

わたしたちは歴史というものを自分とほとんど関係のない遠く離れたもののように思っている。

あるいは、図書館に並んだ古びた書物の中にあるもののように感じている。

しかし、わたしたち一人ひとりにも確かな歴史があるのだ。

それは、日々の歴史だ。

今のこの一日に、自分が何をどのように行うかがこの日々の歴史の一部になるのだ。

おじけづいて着手せずにこの一日を終えるのか、怠慢のまま送ってしまうのか、あるいは、猛勇にチャレンジしてみるのか、昨日よりもずっとうまく工夫して何かを行うのか。

その態度の一つひとつが、自分の日々の歴史をつくるのだ。

【視点を変えたり、逆手にとったりする】

求め、追求し続け、それでも得られずについに疲れ果てたのならば、今度からはそれを見出すようにすればいいのだ。

何をしても風が吹いてきて妨害され、どうしてもうまくいかないのであれば、今度からは風を利用してやればいい。

帆を高く張り、どんな風が来ても、すべて追い風にしてしまうのだ。

【心の生活習慣を変える】

毎日の小さな習慣のくり返しが、慢性的な病気をつくる。

それと同じように、毎日の心の小さな習慣的なくり返しが、魂を病気にしたり、健康にしたりする。

たとえば、日に十分自分の周囲の人々に冷たい言葉を浴びせているならば、今日からは日に十回は周囲の人々を喜ばせるようにしようではないか。

そうすると、自分の魂が治療されるばかりではなく、周囲の人々の心の状況も、確実に好転していくのだ。

【長所の陰に隠されているもの】

そっと遠慮する。

誰にも気を悪くさせないように気遣う。

できるだけ迷惑をかけないようにする。

そういう人は、周囲の人々のことを考え、公正な性質を持っているように見えます。

しかしまた、その人が臆病であっても、同じ振る舞いをするものだ。

だから、長所に見えるものであろうとも、その根源がどこから来ているのか、よく見る必要がある。

【勝利には偶然はない】

勝利した者はもれなく、偶然などというものを信じていない。

たとえ彼が、謙遜の気持ちから偶然性を口にするにしてもだ。

【心は態度に現れている】

ことさらに極端な行為、おおげさな態度をする人には虚栄心がある。

自分を大きく見せること、自分に力があること、自分が何か特別な存在であることを人に印象づけたいのだ。

実際には内に何もないのだ。

細かい事柄にとらわれる人は気遣いがあるとか、何事にも繊細だというふうに見えることもあるが、内実は恐怖心を抱いている。

何か失敗するのではないかという恐れがある。

あるいは、どんな事柄にも自分以外の人が関わるとうまくはいかないと思っていて、内心で人を見下している場合もある。

【虚栄心の狡猾さ】

人間が持っている見栄、すなわち虚栄心は複雑なものだ。

たとえば、自分の良からぬ性質や癖、悪い行動を素直に打ち明けたように見える場合でさえ、そのことによってもっと悪い部分を隠してしまおうという虚栄心が働いていることがあるからだ。

また相手によって、何をさらけだしたり何を隠すのかが変わるのがふつうだ。

そういう眼で他人や自分をよく観察すれば、その人が今、何を恥じ何を隠し、何を見せたがっているのか明確にわかってくる。

【魂が贅沢の水を好む】

贅沢を好む癖というのは、それほど身分不相応な、思い上がった心から来るものではない。

ふつうの生活に必ずしも必要でないもの、過剰なものにどうしても魅了されてしまうのは、実は贅沢こそ人間の魂が最も好んで泳ぐ水そのものだからだ。

【活発だからこそ退屈を感じる】

なまけ者はさほど退屈を感じることはない。

なぜならば、感性が高く活発な活動を求める精神を持っているからこそ、ふとした時間に退屈を感じるものだからだ。

【飽きるのは自分の成長が止っているから】

なかなか簡単には手に入らないようなものほど欲しくなるものだ。

しかし、いったん自分のものとなり、少しばかり時間がたつと、つまらないもののように感じ始める。

それが物であっても人間であってもだ。

すでに手に入れて、慣れてしまったから飽きるのだ。

けれどもそれは、本当は自分自身に飽きているということだ。

手に入れたものが自分の中で変化しないから飽きる。

すなわち、それに対する自分の心が変化しないから飽きるのだ。

つまり、自分自身が成長し続けない人ほど飽きやすいことになる。

そうではなく、人間として成長を続けている人は、自分が常に変わるのだから、同じものを持ち続けても少しも飽きないのだ。

【疲れたと感じたら、考えない、思わない】

いつものように毅然(きぜん)としていられなくなったら、疲れている証拠だ。

疲れていると、わたしたちは溜め息をつき、愚痴を口にし、後悔を口にし、ぐるぐると似たようなことを考え、そのうち憂うつなことや暗いことが頭の中を勝手に動き回るようになる。

それは毒を吸うようなことだから、疲れたと感じたら、考えることをやめ、休んだり寝たりするに限る。

そして、また毅然として活動できるように明日に向かって備えよう。

【快・不快は考えから生まれる】

快感とか不快感は、何かが自分に与えてくるものだとわたしたちは思い込んでいる。

けれども実際には、自分の考え方が動かしているものなのだ。

たとえば、何かをしたあとでわたしたちは「ああしなかったら、うまくいったのに」と不快感を覚える。

逆に、「こうやったから結果が最上になった」と快感を覚える。

こういうふうに思えるのは、自分はやり方についてどちらの選択もできたと考えているからだ。

つまり、自分にはいつもどちらも選べる自由があるという前提から生まれた考えなのだ。

自分には選択の自由があったというその考えさえなければ、こうなったという現状に対して、快感も不快感も生まれる好きはないのではないだろうか。

↓ 参考書籍

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