【優れた人物ほど、「黒子」に徹する】
リーダーにこれみよがしのパフォーマンスは不要だ。「黒子」に徹して、下の者がやる気になって力を出せるように黙々と働ければいい。自ずと人心がついてくる。
リーダーが一番目立つような組織はダメだという意味です。
例えば会社なら、社員たちから見て、「たしかにうちの社長は名リーダーのようだが、具体的に何をしているんだか、まったくわからない」というような社長がすばらしい、ということです。
なぜでしょう?
これは、目立つリーダーを考えてみると、良くわかります。
もし、リーダーがこれみよがしに「俺はこんなすごい仕事をやってのけたんだぞ」などと言わんばかりの行動を取ったら、手柄はほぼすべてリーダーのもの、という空気が生まれます。
そうすると、下の者はどんな反応をすると思いますか?
「すごいなぁ~。うちのリーダーは。自分たちはなんて無力なんだろう」
「リーダーにばかり大変な思いをさせて、申し訳ないなぁ」
といった気持ちになり、少なからず落ち込みますよね?
そんな無力感があると、下の者はやる気を失うし、いい仕事も生み出せないのです。
だから、リーダーが何をしているかは、見えないほうがいいのです。
下の者、一人ひとりが「自分が頑張っていい仕事をし、組織の業績に貢献しよう」と思うようになれば、放っておいても会社の業績は上がるでしょう。
何より大切なリーダーの仕事は、組織を永続的に成長させていくことです。
自分が目立ったところで、何もいいことはないのです。
そういう話をすると、決まってこんな反論が返ってきます。
「それはわかるけど、今度は下の者が増長するのではありませんか?」
下の者の増長は大いに結構です。
下の者が自分の実力を信じていれば、自信をもってどんどん仕事をするではありませんか。
それこそ「リーダーの思うツボ」です。
下の者に親しまれ、誉れに思われるようなリーダーは、立派だと思うかもしれませんが、そうでもありません。
下の者はつい、我が身と比べ、「とてもああにはなれない」と落胆したり、「ああでなくてはいけないんだ」とプレッシャーを感じたりします。
自由に伸び伸びと仕事をすることができなくなる恐れがあります。
それに、厳しすぎるリーダーは下の者を委縮させるし、リーダーが軽く見られるようでは組織がだらけるだけです。
メジャーリーグで、マー君こと田中将大投手が一年目から大変な活躍を見せました。
ケガをしてしまったのは残念ですが、「支えてくれる皆さんのおかげです」と謙虚さを忘れません。
監督以下チームの面々はもう、彼に絶対的信頼を置いています。
彼がいいお手本です。
「最初はダメで、だんだん良くなる」より、「最初からすごい成績を収めて、周囲に有無を言わせない」ことも、また大事なのです。
【これが究極の人心掌握術】
リーダーだからといって、いかにも強そうに見せるのは愚の骨頂だ。下手に出て相手の闘争心を挫(くじ)くのがいい。
とくにリーダーになりたてのころは、「なめられてはいけない」と虚勢を張りたがるものです。
その気持ちはわかりますが、下の者にとって「リーダー風」を吹かされるほどいやなことはありません。
そんなリーダーは周囲の反発を食らうだけです。
本当に実力のあるリーダーは、そもそもリーダーらしくふるまう必要がありません。
そんなことにエネルギーを注ぐよりも、自分が下手に出てみんなに気持ちよく働いてもらうために心を砕くことのほうに、リーダーの本質があるということがわかっていて、無能なふりをするのです。
例えば、仕事の指示一つ出すにしても、「これをやれ、今日中だよ!」などと高圧的に命じてはダメです。
下の者は、心の中で「無理だよ、できるもんか」と反発し、真剣に取り組みません。
そこを、「君はこういう仕事がうまいよね。かなわないよ。今日中にやってくれると嬉しいな」と下手にでると、下の者は刃向かう気持ちが挫(くじ)かれ、「しょうがないな、そこまで見込まれたなら、頑張るか」という気持ちになります。
どちらがリーダーとしての力量が上かは、論じるまでもありません。
上司・部下の関係だけでなく、競争相手でも何でも、とにかく「相手に対して下手に出て、闘争心を挫いたうえで、誉めてやる気にさせる」のが、リーダーに必要な「不争の徳」なのです。
相手が自分より弱い立場でも、見くびらずに、自分のほうが一歩も二歩も退くことで主導権を握る。
争わずに、好きに事を進めていくことができます。
もとより、自分の力で相手を変えようと思うことが不遜のことなのです。
「自分は変えられるが、他人は変えられない」という言葉もあるように、変えられるのは常に「自分」だけです。
自分の思考を変えて、相手を動かす。
戦わずして、相手に勝ったと思わせておく。
ノーガードの相手ほど、戦いやすい相手はいません。
これは、リーダーのみならず、すべての人に共通の人間関係の基礎とも言えるでしょう。
【いざという時に、腹をくくれるか?】
世の中の善・不善をわきまえるのも大切だが、「不善の善」というものもある。生涯に一度くらいは宇宙的観点から善と判断したなら、それが多くの人の命を救うことに繋がる行動なら、世の中で不善とされることをしてもいい。
善人であろうが、不善人であろうが、「道」から生まれたという点では同じである。
老子は「善くない人だって「道」は見捨てない」と、「道」はすべてを受け入れる寛大にして貴よいものだと説いています。
ただ、この論の危険な所は、「だったら、何も善人である必要はないじゃないか」と短的に考えてしまうことです。
そうではなくて、「道」のありようから遠いところにあるような行動はしない、それが基本です。
ここで、言いたいのは世俗的な視点で不善とされることでも、もっと大きな宇宙的視点で見れば善である場合もある、ということでしょう。
リーダーには超法規的措置を取れるだけの力が与えられています。
「いまがそれを行使するときだ」という瞬間が、あなたの人生にないとは言い切れません。
生涯に一度や二度あるかないかでしょうが、その時に世の中の枠組みに囚われない勇敢さ、リーダーの資質でもあります。
「生涯一回こっきりの権利行使」と思えば、腹も座るでしょう。
思い切ったプロジェクトを提案するや、自分で「起業」するでも構いません。「いざ!」というときに行動に移せるか、「実行」できるか?リーダーには「決断力」が必要とされます。
↓ 参考書籍
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