【昔の自分に返れ】
赤ん坊は純粋無垢な心を持ち、生きるエネルギーに満ちありふれている。
人は成長するにつれて、「浮世のしがらみ」だの私利私欲など、自分を縛る余計なものを身につけてしまうものだ。
しかし、ときにはそんな「ボロ衣」を脱ぎすて、赤ん坊に返って考えて見ることか大切なのでだ。
赤ん坊のすばらしさを、老子はこう語っています。
「毒虫に刺されもしないし、猛獣、猛禽(もうきん)に襲われることもない。
骨が弱く、筋肉が柔らかいのに、ものをつかんだら放さないくらい、強い力がある。
まだ男女の交合も知らないのに、勃起が起きるくらい精力に満ち溢れている。
一日中泣いていても、声がかれることもない。
そういった強さや生きるエネルギーに満ちているのは、純粋無垢な赤子の心が生み出すのだよ」
私たちは成長するにつれて、心にいろんな「ボロ衣」をまとっていきます。
周囲の目を気にして背伸びをしたり、欲にかまけて「もっと、もっと」と富や名声、贅沢を追いかけたり、人と争ったり、「浮世のしがらみ」に囚われて、やりたくもないことや不本意なことをしてしまったり。
もともと持っていた純粋無垢な心から、どんどん離れてしまっているのです。
それが「大人になる」ことだと言えば、確かにそうですが、だからと言って「ボロ衣」を何枚も何枚も重ねて着ていく一方で、そのうち身動きが取れなってしまいます。
大事なのは、まず、自分は「ボロ衣」を着ているんだと自覚すること。
そのうえで、ときには意識して「ボロ衣」を脱ぎ捨てることです。
どうすれば、「ボロ衣」を脱ぎ捨てられるか。
それは、「感動の瞬間を出来るだけ多く持つこと」です。
たとえば、絵でも音楽でも風景でも、美しいモノに接する。
あるいは、物語を通じて、人間の美しい心に触れる。
仏壇や神棚の前で手を合わせ、心を感謝の気持ちで満たす。
可能なら、座禅や瞑想をするのもいいでしょう。
よりいっそう、シャキッとして心が洗われるような気持ちがします。
そういった感動のひとときが、心を純粋にしてくれるのです。
そきには赤ん坊のように返って、純粋無垢な心と、生きることの自由を取り戻そうではありませんか。
【人の価値は肩書き、名声の中になし】
肩書きが立派だとか、世に聞こえた名声があるとか、そんなことで人は評価されるものではありません。
自分自身を含めて、人間は肩書きや名声に頼らず、「素っ裸の姿」で生きていくのが本来の姿です。
名前というのは、そもそも無数に存在する万物を判別するために、仮につけられた呼称でしかありません。
つまり、名前自体には中身はないのです。
ましてや肩書きや名声といったものは、まさに有名無実。
人格を表すものではありません。
世間ではとにかく、肩書だけで「社長だから偉い」「大学教授だから偉い」「有名な人物だから偉い」などと評価しがちですが、そのことと「尊敬に値する人物である」こととはまったくの「別もの」なのです。
どこかの会社を訪問したとき、課長より部長、部長より社長が対応してくれると、何となく自分が尊重されているような気になります。
でも、それは間違いで打ち合わせをする内容によっては、役職などなくても、現場に一番詳しい人が対応してくれたほうが、よほどありがたい場合だって多いでしょう。
あるいは、経歴も肩書きも容姿も申し分ない人が目の前に現れたら、つい「こんな人と付き合いたい」という気持ちになるかもしれませんが、その人の内面に魅力を感じていなかったら、いざ本当に付き合ったとしても、長続きはしません。
人を見るときは、会社名も出身校も家柄も肩書きも、およそ名前のつくものはすべて引きはがして、「素っ裸のその人」を直視することが大切です。
もちろん、自分自身についても同じで、肩書きや名声に振り回されて、中身を磨くのをおろそかにしていると、いつまでたっても実のある魅力的な人間にはなれません。
【自分の天性、個性を見失うな】
自分を他人と比べたり落ち込んだり、得意になったりするのはもうやめにしよう。
自分の天性は何なのか、個性は何なのかを直視して、それを生かすことを考えなさい。
私たちは生まれたときから、比較社会の中で生きています。
そのため、誰かと比べて自分の優秀さを測ったり、何かと比較して物事の価値を測ったりすることが、半ば当たり前のようになっています。
ですが、相対評価で人間や物事をどうこう評価することに、意味などありません。
私たちは、いかに物事の本質を見失った貧弱な見方をしているかに、気づかなければなりません。
大事なのは、絶対的な個性で物事を見ることです。
人生でいうなら、自分自身の天性・個性は何なのかを見極めて、それを生かして生きるほうが、自分にないものを追い求めるより、物事を有利に運べるし、楽に生きることができます。
私は転職を何度もくり返しています。職種にはこだわらず、様々な仕事をしてみました。今になって私自身、「人と関わる仕事」が適正であると思い、「介護」に身をおいています。工場なんかで働いていた時は「生きている実感」が湧かなく、「ん?」と思う日々を過ごしていた気がします。
世の中には一人として同じ人間はいません。
一人ひとりの人間に異なる天性・個性を付与して、この世に送り出されていると考えると、「自分は何が天性なのか、個性は何なのか」と問う必要があります。
これは比較社会にどっぷりつかった私たちには、相当難しいことかもしれません。
【好きなことが生きる武器になる】
世間の価値観に囚われず、また世に言う成功に執着せず、自分の好きなことだけを追求しなさい。
そうすれば、アグレッシブに事に向かうエネルギーが枯渇することなく、楽しく生きていける。
【自分の天性、個性を見失うな】 に続きで、まずは本書の老子の「無為不言」の教えが語られています。
「無為」とは、自然のままで作為のないこと。
その反対が「人為」で、この二文字をくっつけると「偽」という字になります。
人為的に物事を進めていくと、自分の人生がやがて「にせもの」になるという意味です。
この「無為不言」は「道」そのもので、「道」は万物を生み出すという立派なことをしながらも、功名心のかけらもなく、自分が一番偉いんだぞとばかりに頂点に居座ろうとせず、淡々と万物を生み続けています。
その「道」を私たちの「人生」に当てはめると、一つは「成功」と呼ばれるものに執着するな、ということになります。
そんな成功を追い求めると、うまくいったら相対評価で「自分は誰よりもすごい」と勘違いをしてしまい、その成功で手に入れたポジションを手放すまいと躍起になって、新たな挑戦に向かって歩を進めるエネルギーが枯渇して、やがて「こんなずじゃなかった」ということになりかねません。
そうではなく、世間で言う「成功」とは関係なく、自分の価値観でやりたいことと思うこと、言い換えれば「自分の好きなこと」を追求した方が、やっていて楽しいし、それに向かうエネルギーがなくなることもありません。
次から次へと挑戦課題が出てくるから、飽きることもなく、その結果、苦もなく頑張れることができるでしょう。
私は「読書」を始めたのが、数年前です。読んでいると「知識」が身に付き「語彙力」「考え方」などの変化も実感しております。また、アウトプットとして「ブログ」を始め、「記録」として毎日行っておりますが、まったく苦にならず、たまに本業を休んで「ブログに集中したいな」と思うことがあります(笑)。
私たちは、たくさんの「情報」や「モノ」にあふれた社会で生きています。
まずは「余計なものをそぎ落として無為なる」ことから始めると良いでしょう。
こざかしい知恵をつけようとか、周囲の目を気にして自分をよく見せよう、勝ち組になろう、といった欲望が私たちの「思考」を邪魔します。
「無為」
自然のままの自分が生きようと「悟る」至る。
「悟る」とは世間に振り回されて生きてきた、いままでの自分を捨てて「そうだ、もう一回、元気に生きよう」と思うことです。
もしそれが出来れば、清々しい気分になれます。
【仕事は楽しんだ人の勝ち】
天下を背負って立とう、会社を背負って立とうなんて考えなくていい。
自分のペースで地道に暮らしをしていると、自分の好きな分野で知らないうちに世の中の役に立っているものだ。
自分が好きでやっている仕事なら、競争に勝った、負けたとか、出世しようといった思いとは関係なく、ひたすら一生懸命に取り組めます。
そうすると、望まなくても、その道の達人になっていき、知らず知らずのうちに世の中の役に立つというのです。
仕事を楽しむポイントは、それを「楽しむ能力」があるかどうかにかかっています。
そして、それは成功体験によって身につくものです。
成功体験とは、野球選手なら「正しく捕る」「正しく投げる」「正しく打つ」となり、ビジネスパーソンなら、「しっかり聞く」「しっかり読む」「しっかり書く」「しっかり考える」ことです。
世の中の成功者と呼ばれる人たちにしても、多くの人が「もともと好きで選んだ仕事ではなかったんです、でも目の前の仕事に懸命に取り組むうちに、いつの間にかその仕事が好きになりました。それで成果が上がると、楽しくなってきたんです」。
ですから、仕事を好きかどうか考える前に、とにかく無心で頑張ってください。
必ず、「仕事が好きだから夢中でやる」→「夢中でやるからうまくいく」→「うまくいくからもっと楽しくなる」という好循環をつくることができます。
好きなことを楽しんでやることが一番、体にもメンタルにもいいので、まずは「一生懸命」に目の前のことを行い「好き」になることから始めてください。
↓ 参考書籍
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