「私の趣味は〇〇です」
そういいながら、何年、何十年もその趣味を楽しんでいない人が結構いる。
忙しい現代を生きていると「したいな」と思いつつできないことも多い。
しかし、長い間やっていない趣味を趣味といえるだろうか。
無趣味というのは、無人生といっていいくらい味気ない人生だ。
人は何らかの趣味をもっているのが普通である。
趣味的なものがまったくない人の日常はうるおいに乏しいものだが、「自分は多趣味」といいながら、実践していない人も無趣味な人と変わるところはない。
どんな生き方をしているにせよ、趣味に費やす時間が全然もてないのは、生き方のどこかが間違っている、と私(著者)は思う。
現実に押し流されているだけで、自分で選びとっていないからだ。
趣味というのは実践されなければ、まった<意味がない。
仮に「私の趣味は昆虫採集です」というなら、大人になっても、昆虫が身近なものでなければならない。
そうでなければ、過去の思い出話である。
思い出話で今を飾るのは衰えの証明である。
定年過ぎの同窓会で学生時代の話をするのと同じだ。
男はそれではいけないのではないか。
また、趣味を人生の優先順位で二の次、三の次に考える人がよくいる。
仕事も大切、家庭も大切だが、同じくらい趣味も大切にすべきだ。
なぜなら男の人生は趣味でまったく別ものに変えることができるからだ。
「メンデルの法則」で知られる遺伝の法則を発見したグレゴール・メンデル。
彼の本職は聖職者である。
聖職者でありながら、修道院の庭でエンドウマメを栽培、遺伝の法則をまとめて学会に論文を提出した。
しかし、メンデルの法則の正しさが理解されたのは、ずっとあとになってからだった。
彼の生前には認められることはなかった。
だから、メンデルのやったことは、当時は「物好きな司祭さんの趣味」でしかなかったのである。
人名辞典を見ると、メンデルは「植物学者」と出ているが、本人にはたぶんそんな意識はなかったはずである。
興味の赴くまま調べていたことが、世の中まいきよの誰もが知らないことの発見につながった。
こういう例は枚挙にいとまがない。
職業的な「仕事」が存在できるのは、社会に貢献する何かしらの価値なり意義があるからだが、人類への貢献度という点ではそれほど大きいものではない。
社会の維持には役立っても、発展にはそれほど貢献しないものだ。
世の中を大きく変えたり、人々に喜びや感動、便利さを与えてくれたりするものは、趣味の世界から生まれたものが圧倒的に多い。
誰も頼まないのに、飛行機づくりに情熱を傾けたライト兄弟がいてくれたから、今日われわれは短時間に飛行機で移動できる。
発明を趣味にしたエジソンがいてくれたから、われわれは夜でも明るい世界で暮らせる。
個人レベルで考えても、趣味は人生に彩りを添え、生きる喜びを与えてくれる。
一流の趣味人として知られた作家の白洲正子さんは、趣味についてこう語っている。
「五、六十年もやって、やっと骨董にも魂があるってことを知ったの。ずいぶん、いろいろのことを教えてもらった。あたしの欠点も長所も、いかに生くべきかということまで」
人生は一人駅伝のようなものだ。
就学、恋愛、結婚、仕事、子育て、老後など一生にはいくつもの節目があり、生き方は変化することが多いが、趣味が駅伝のタスキになってくれれば、境遇が変わってもゴールまで幸せに生きられる。
生涯通じて実践できる趣味を一つはもっていたいものだ。
【趣味は論じるより味わうもの】
履歴書には「趣味」を書く欄がある。
趣味を知ればどんな人柄かおよその見当がつくからだ。
書くほうは、無難な趣味を書く。
映画鑑賞、読書、ゴルフ、釣り、ガーデニング、ドライブなどが無難な趣味と思われている。
だが、趣味の領域に入るものは、とてつもなく幅広い。
極端にいえば、好きで熱心に継続的に取り組めるものは、すべて趣味といってもいい。
人に仕えることすら趣味になる。
田中角栄の秘書を長年務めた早坂茂三さんの趣味は「田中角栄」だった。
高度成長期のサラリーマンの中には「会社が趣味」という人が大勢いた。
彼らは会社にすべてを捧げた。
当時は会社も見返りをくれた。
お互い帳尻が合っていたわけだ。
だが、そこまで趣味を拡大してはいけないのではないか。
利害がからむのは、趣味と呼ばないほうがいい。
趣味はあくまで欲得抜きでいくべきだ。
株式投資が趣味という人もいるが、リスクが大きいものは、趣味というより.「道楽」と位置づけたほうがいい。
ギャンブルなどはリスクを取る代わり、儲けも莫大になる。
損のほうが圧倒的に多いが、そのぶん快楽的な要素が強い。
それだけに一度ハマると抜けられないし、社会の常識をしばしば逸脱する。
そうなると趣味の領域で論じるのは難しい。
趣味はあくまで社会の常識になじむ世界で行なわれるものだ。
趣味で人生を破壊するのは絶対に避けなければならない。
その意味で趣味は「ほどほど」の世界にとどまるべきものだ。
しかし、だからと言って楽しみも「ほどほど」と考える、のは間違いだ。
深く関われば、趣味は人に大きな喜びをもたらし、また人を成長させてくれるものである。
趣味に興味を示さない人、軽く考えている人は趣味の味わい方が下手なのだと思う。
趣味も楽しむには自ずとコツがある。
新しい趣味では早い時期に「味わう努力」をすること。
すぐ飽きてしまう人は、味わう努力を先にしないからである。
たとえば、生け花を始めたとする。
お花の真髄は、花の心を知り、花とともに遊ぶことである。
作法にばかり意識が向いて、遊び心をおろそかにすると、楽しさがなかなか味わえない。
「つまんない」とやめてしまうのはそういう人だ。
中には長年やっていながら、少しも楽しんでいない人もいる。
せっかくよい趣味に巡り合いながら、それではもったいない。
上達なんかしなくていいから、楽しさを味わうことにもっと貪欲になって、大いに楽しむべきものが趣味なのだ。
知人に自分流の生け花で注目を集めている女性がいる。
家元ではないが、生け花を取り入れたインテリアデザインで、一流企業から依頼がくるほど評価が高い。
彼女は他人が生けた花を見てこんなことをいう。
「あのお花は悲しくて泣いているわ。あんな生け方をされたら悲しいものね。あのお花は喜んでいる。ほら、ニコニコ笑ってるでしょ」
花と一体化しているのだ。
彼女が新しいインテリアの分野を切り開くことができたのは、ひとえに花の心を理解できたからだ。
趣味も経験や努力が必要だが、味わう気持ちが一番大切なのである。
食通とおいしい料理を食べながら、何かとうんちくを傾けられるより、炊きたてのごはんをおいしそうに味わっている人のほうが、見ていても気持ちがいい。
映画評論家の淀川長治さんは、映画を女性を愛でるように味わい尽くした人だった。
映画評論家は大勢いるが、淀川さんほどわれわれに「思わず観たくなるような解説」をしてくれた人はいない。
淀川さんは他の評論家とどこが違っていたのか。
淀川さんは講釈を披瀝(ひれき)する人が多いが、講釈抜きで、いきなりクライマックスの高揚したドキドキ感を教えてくれたのだ。
これは自分が味わうちしつい尽くし、隅から隅まで知悉(ちしつ)していなけばできないこと。
趣味はまず味わのが先決である。
【軽いノリで何でもやってみるといい】
腰の重い人というのは、何をやるのでも「どうしようかな」とか「だって・・・」とかいっている。
断言していいが、そういう人は人生の楽しみを逸する人である。
人との出会いがそうであるように、趣味との出会いも運命的なものがある。
だが、運命に出会うには、何か行動を起こさなければならない。
そのためには機会があったら逃げないで、何でも軽いノリでやってみることだ。
ゴルフ好きに囲まれながら、いまだクラブを一回も振ったことのない知人がいる。
まわりの人間は彼にゴルフをやらせようと「やる気になったら、いつでもいってくれ。道具一式喜んでプレゼントする」といった。
そのときの彼の弁はこうだ。
「俺、左利きだからなぁ」
仲間は重ねてこういった。
「かまわない。レフティ用を揃えるよ」
結局、いまだにゴルフ用具はプレゼントされていない。
腰の重い人間の典型である。
この男もなかなかの趣味人で、いろいろな趣味があるから、特にゴルフに食指が動かない気持ちもわからないではない。
だが、ゴルフの楽しみを知っている私などから見ると、せっかくチャンスをもらいながら「なんと、もったいないことを」と思ってしまう。
世の中には「食わず嫌い」の人がよくいる。
人が「私は〇〇が嫌いです」とか「興味がありません」というとき、そのことについてよく知っていることは稀(まれ)である。
嫌いなものには近づかないのが普通だから、ろくに知らなくて当然だ。
だが、遊び心のある人間はそうではない。
まず「やってみる」を優先させる。
そういう軽いノリを身につけているのだ。
軽いノリを会得するにはどうするか。
機会があったら何でも一度はアプローチしてみること。
たったこれだけのことである。
何だかんだと理屈を並べて動かない男より、何にでも「よしっ!」と飛び出していく男のほうが、失敗も多いが魅力的だ。
「やってみるのは学ぶのに勝っている」という言葉がある。
哲学者ヒルティという人の言葉だが、気の進まないことも、始めてみると感興が湧いてくるもの。
これがわくわくドキドキ生きるコツでもある。
新しい趣味に取り組むとき「軽いノリ」ということを忘れないでおきたい。
↓ 参考書籍
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