楽天的発想

心理・思考・時間


【「できること」が増えるより、「楽しめること」が増えるのが、いい人生】

人生、長く生きると、人の価値は「何ができるか」にかかっているのだとわかってくる。

何ができるかは、この技術革新の時代、大した意味をもたなくなってしまう場合が少なくない。

たとえば、昔はそろばんが上手だときわめて重宝されたものだ。

だが、いまではコンピューターが、縦、横、斜めに足した和、パーセンテージまでたちどころに計算してくれる。

円グラフや棒グラフだって、クリック1つで作成してくれます。

花を愛するのに植物学は不要である。 ー  稲垣足穂『横寺日記』

だが、それを楽しむことはコンピューターにはできない。

コンピューターは、人間が指示したことだけを実行する機械であり、計算を楽しんだり、指示を心待ちにするような高等な芸当はこなせない。

ものごとを楽しむということは、高度な感性なしにはできない精神活動だと思う。

たとえば雨である。

雨は、大気中の水蒸気の粒がしだいに大きくなり、地上に落下してきた液体にすぎない。

だが、その雨を、日本人は実にさまざまに形容して楽しんでいる。

春は春雨、菜種梅雨(なたねづゆ)、花の雨。夏は卯の花腐し、五月雨、夕立、驟雨(しゅうう)。

秋は秋の雨、秋採、冬は時雨、氷雨、寒の雨……という具合に、いとおしみ、自分の心情を託したりする。

あらゆることに楽しみを見つけることは、人間だけに許された生の醍醐味なのである。

私にはとりたてて才能といえるようなものはないが、しいていうなら、何でも楽しみに変えてしまう「才能」には、恵まれているのではないか、と思っています。

若いときから、人一倍、いや、二~三倍は仕事を抱え、かなり多忙に過ごしてきたが、その多忙さえ楽しんでしまうところがあったそうです。

なにしろ、若いころには、昼間は慶応義塾大学の研修医として働き、夜間は世田谷で開業医として働いていたのだ。

少し後には、自分の病院の診療と経営のほかに、大学に講座をもって教えるようになり、食事の時間もなく東奔西走していた。

私のために、家内は一口大のサンドイッチをつくり、移動の車中で口に放り込んでくれたものだ。

そんなことさえ、ほの甘い思い出になってくる。

若いときは、多忙を楽しめるのは若さの賜物(たまもの)と思っていたが、この年になっても、けっこう楽しめているから、これはもう立派な才能といってさしつかえあるまい。

いまも、週に二回は外来診察を担当しているし、いくつかの会の会長を務め、おまけに大のパーティー好きときている。

毎朝、手帳を見て、綱渡り的なスケジュールになっていたりすると「今日は忙しいゾ」と多忙に挑戦するようなファイトさえ湧いてくる。

そして、一日の終わり、ベッドに入る前に、過密スケジュールを無事クリアできたと確認すると、「やったゾ」という満足感が湧いてくる。

私は、予定は手帳に鉛筆で書き込み、スケジュールを消化するとそれをペンで書き換え、一日の最後に鉛筆書きの部分を消す。

これが予定完済の儀式なのだ。

「小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善をなす」という。

することがない人生は空虚だ。

神経科を訪れる患者さんの中には、「もっと忙しい毎日を送れば病気は吹っ飛んでしまいますよ」励ましたくなるケースもあるくらいだ。

人生に不足が感じられたら、もう少し忙しく生きるのも一つの解決法かもしれない。

休息とは回復であり、何もしないことではない。 ー  作家ダニエル•W・ジョセリン

忙しさを楽しめるようになれば、自分のメンテナンスは身体的な疲れをとるだけでいい。

だが、最近はオフィスはOA化され、肉体労働の多くは機械に置き換えられた。

仕事の疲れのほとんどは、体よりも心の疲労になっている。

心の疲れは、体を横たえて何もせずにいてもとれない。

かえって蓄積してしまいがちだ。

休暇には体を使う仕事をしたほうが、心身をリフレッシュできるものだ。

知人の編集者に、週末ごとに山梨まで出かけ、夫婦で家づくりをしている人がある。

出版不況の中で、売れる企画がなかなか出せず、精神的に追い込まれて大酒を飲むようになり、休みの日はほとんど死んだようになって過ごしていた。

見かねた彼の妻が、田舎に家を建てよう、しかも自分たちの力で、という計画を持ち出したのだ。

いまでは週末には二時間以上車を走らせ、大きな木材をかついだり、セメントをこねたりの肉体さつそう労働にすっかりはまっている。

おかげで週明けには明るい表情で颯爽とオフィスに登場するようになったそうだ。

家を建てる、なんて大ごとでなくてもいい。

欧米では、週末にはよく、夫婦で家の手入れをする。

ペンキ塗り、壁紙張り、芝刈り、庭の手入れ……。

こうした作業は想像以上に心の疲れをほぐす。

共働きで小学生の子どもさんを育てているHさんは、週末の二日間を妻と「半分半分の日」にした。

たとえば土曜日は妻がすべての家事を行ない、夫は好きに過ごしてよい。

日曜日は反対に、という具合だ。

最初は、家事負担を公平にするために始めた休日シェアだったのだが、とくに男性のHさんにとっては家事による体の疲れはかえって新鮮で、心の疲れをほぐしてくれることに気がついた。

とくに料理は凝りに凝っている。

日頃の仕事とまったくベクトルの異なることによる疲れは、仕事の疲労を解消する効果があるのだ。

心の疲れを覚えたら、一日シェフをかって出て、家族のために、買い物から料理、後片づけまで引き受けてみるのもよいかもしれない。

【「どうせ」という口癖を、「もしかしたら?」に変えてみる】

いつも前向きに考えられる明るい性格の持ち主は、人生を成功に導く力の持ち主でもある。

だが、性格は生まれつきのものでしょう?という質問もよく受ける。

よく、明るい性格とか暗い性格とかいうが、電球ではあるまいに、性格にそんな分け方はない。

性格とは、りんごの芯のように固い(不変の)部分と、果肉のように環境要因などで大きく変容する(可変の)部分の両方から成り立っている。

明るいとか暗いとかは、決定づけられている芯の部分というより、気の持ちようや、ものごとの受け止め方、生きる姿勢をとったほうがよい。

ある程度は自分でコントロールできる部分なのだ。

空は、どんな人の上でも青いわ。 ー  映画『縮みゆく人間』

たとえば、気弱で心配症な人でも、できるだけ楽天的に考えるように努めていると、いつの間にか、ものごとを明るい面から受け止める習慣ができてくる。

このように、性格は、ある程度は自分でつくることができると私は考えている。

ものごとは必ず、よい面と悪い面が半分ずつだ。

陽があれば、その影になる部分は陰。

陰陽は常にセットになっていることを忘れないでおこう。

雨の日に、「雨はゆううつだなぁ」と考えるか、「これでむし暑さもおさまる。ありがたい」と考えるか。

考え方をほんの少し変えるだけで、その日一日の心情が180度、変わってしまうのだ。

ものごとの感想を述べるとき、明るいファクターから口にするように習慣づけよう。

性格は、そんなふうに変える、というよりコントロールしていくとよい。

雑草とは、その美点がまだ発見されていない植物である。 ー  アメリカの哲学者エマソン

妻に対して心がけていることが一つある。

晩飯を1口、口にしたところで、rああ、うまい!」と小声で叫ぶのだ。

おいしかろうとまずかろうと、いつもそういう。

これは、半分は自己暗示のためである。「うまい」と叫ぶと本当においしく思えてくるものなのだ。

半分は妻への感謝である。

妻は、一日、夫の帰りを待って、あれこれ工夫して夫のために料理をつくっている。

その料理を「まずい」といわれたのでは、妻の一日は否定されてしまう。

「うまい」といった後に、「ちょっと塩味がほしいから、醤油を取ってくれ」といわれれば、妻はそう傷つくことはない。

これが頭ごなしに「塩味が足りないじゃないか。盤油を取ってくれ」といわれたら、妻は不愉快な思いを抑えきれないだろう。

妻が不快になれば、夫の自分も愉快ではない。

こうして考えると、料理をおいしくするもまずくするも、ものごとをおもしろくするもつまらなくするも、人生を成功させるも失敗させるも、しょせんは自分しだいだとわかってくる。

陰と陽のいずれを見るかの習慣にかかっているとわかる。

ちなみに、ものごとの悪い面ばかり見ず、よい面に目を向ける方法は、専門的には「認知のゆがみを直す」といい、うつの治療などにも用いられている。

【「成功しよう」とするより、「夢をかなえよう」とするほうが楽しい】

かつて、シンプルライフをすすめる本がベストセラーになった。

戦中、戦後に究極のシンプルライフ、簡素生活を体験してきたわれわれの世代にとっては、こうした本が出版されることに驚いてしまう。

少し前の主要国の家庭の持ち物調査で、日本がダントツにたくさんのモノを持っているという結果が出ていた。

海外でホームステイをしてみるとよくわかるが、消費大国という印象があるアメリカでさえ、一般家庭の生活は質素であり、モノも少ない。

毎日、自分の嫌いなことを二つずつ行なうのは、魂のためによいことだ。 ー  サマセット・モーム『月と六ペンス』

生活文化の差を考えても、日本人の盛大な買い物ぶりは、見直すべきときにきているのかもしれない。

大量のモノが家の中を埋めつくし、あげくのはては大量のゴミになって、処理経費もふくらませている。

モノを買うお金を稼ぎ出すためにどれだけの時間を使い、どれだけのストレスを抱え込んだか……。

どっさり夢がある暮らしなら、お金やモノは、ラキラ光を放ってくるものだ。

運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。 ー モンテーニュ『エセー』

「先生」と、先日、ある会合で声をかけられた。

俳優のRさんだ。以前はテレビにも毎日のように登場し、スター街道まっしぐらの活躍ぶりだった。

そういえば、最近はあまり姿を見かけない。

人気絶頂にあったとき、彼はマネージャーのいうままに猛烈にスケジュールを消化していた。

仕事づけになるかわり、住まいは家賃100万円のマンション、着るものはブランドづくめ。

故郷の親を東京に呼んで、成功ぶりを見てもらおうと思ったところ、両親は、あまりに日常感覚を欠いた彼の生活ぶりに、かえって心配を深めたほどだった。

そんな彼が、いまは下町のしもた屋住まい。

毎日、コンビニやスーパーに行って自炊をしているという。

あれほどの人気スターも人気がかげったのか。

私はそう思いかけた。

だが、そうではなかった。

人気沸騰しているころも、彼は昔のアングラ劇団時代の仲間との交流を絶やさなかった。

ある日、劇団仲間と観に行った一人芝居が彼の人生を変えてしまったのである(何のために俳優をやっているのだろう。人気?豪華な生活?お金?何度問い直しても、答えはこうだった。

「血がたぎるような舞台をしたいからだ」……。

彼は、周囲の説得にも耳をかさず、芸能・フロダクションを辞めた。

いまは小さな劇団に籍を置き、もう一度、芝居の勉強を一からやり直しているところだという。

「夢があれば貧乏はつらくないとわかりました。昔より、いまがずっと楽しいんです」という彼をしっかりと支えているのは、いつか一人芝居をという夢だ。

仕事に何の喜びも感じられないと嘆く人によく出会う。

そんな人には、どんなに小さくてもいい、何か夢をもちなさいとおすすめしている。

【小さな成功体験を忘れてないか。成功体験を励みにできる人が成功する】

一日10回感動すること。それが長生きの秘訣です。 ー  婦人運動家 加藤シズエ

私も年の割には元気で飛び回っているほうだと思っているが、上には上がある。

私が尊敬してやまないお二人のことだ。

一人は、90歳を超えてなお現役の医者として、医学界を精神的にリードする日野原重明氏。

もう一人は惜しくも平成13年(2001年)に104歳の大往生をとげられる少し前まで、バリバリの活動をしておられた加藤シズエ氏。

まことにご立派だと頭が下がる。

私もぜひお二人にあやかり、奮闘したいと励みにしている。

お二人に共通しているのは、小さなことに感動するのが大変お上手だったということだ。

感動が人生を深くし、さらには長くするのではないかとさえ思う。

せんえつだが、感動に関してなら、僭越ながら私もお二人といい勝負ができるのではないか。

私は人も知るメモ魔である。

「なぜ、それほどまでにメモをとるのですか」と聞かれると、「忘れてしまうから」と答えているが、父も手帳を命の次に大切にしていたし、「遺伝だから」というのが正しい答えになるのだろう。

毎日、手帳に日記をつけている。

手帳だから長文ではない。

ほんの1~2分間で書けてしまう程度のものだ。

それでも長年積み重なるとかなりの情報量になり、たまに古いものを読むとけっこう感心することが書いてあったりする。

旅に行くときは中型の手帳をもち、頭のほうには、パスポート番号など旅に必要なことをこまごまと書き込む。

残りのページには、目についたこと、気になることを片端から書いていく。

オーストラリアのノーザン・テリトリーで泊まった小さなモーテルの冷蔵庫やテレビのメーカー名。

サンヨー、ナショナル、日立……。

いまはサムソンに変わっているだろうか。

ジュースや、ビールの銘柄も書く。

些事のようだが、メモしてあることは、一応「ホホーォ」と思ったことばかりだ。

そのつど、小さな感動を繰り返していたことになる。

ふせん本や雑誌の場合は、感動を受けた個所に付箋をつけ、後で手帳に写し取る。

コピーはしない。

一語一語書き写すから、感銘が頭に刻み込まれると思っている。

仕事でもこれをやったらよいのではないかと思う。

長い間には人とずいぶん差ができるのではないだろうか。

戦いに勝つ瞬間は、戦いが始まる前にある。 ー フレデリック•W・ルイス

この応用が「名刺メモ」だ。

初対面の人と名刺交換をする。

その名刺の裏側に、相手に関する情報を、何でも思いつくまま書き込んでおく。

印象、話の内容、趣味、服装など、何でもいい。

定型を決めないのがコツだ。

その日、そのとき、その相手に対して、自分が「これは」と思ったことを書き込む。

ある営業マンの手帳をなにげなくのぞいてびっくりしたことがある。

手帳にびっしり、切手の二倍ぐらいの大きさのメモ用紙が貼ってある。

そこに、米粒に書き込むような小さな字でメモがぎっしり。

彼は、一日の終わりに、このメモを、名刺ホルダーにストックしてある、その人の名刺のところに貼り直すのだそうだ。

こうして、これまで会ってきた人の情報を積み上げていくのである。

相手に関する情報は、こまかなものであればあるほど有効だというのが彼の持論だ。

彼は、ある企画で、ある人にスポンサー依頼に行った。

それは初対面からすでに半年ほどたったころだった。

だが彼は、初対面でかわした星座の話から、相手はその月生まれだろうと予測をつけていた。

そこで、「今月は課長さんの誕生月ですから、これも何かのご縁で……」といったところ、案の定、相手は「そこまで自分のことを覚えていてくれたのか」とすっかり彼に好意を抱き、話はとんとん拍子にまとまった。

メモ情報の効用はかくのごとし、である。

↓ 参考書籍

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