【心を温める】 慈悲の瞑想

健康 ・睡眠・美容

ポジティブで幸せになるための3つの要素、すなわち、顕在意識のマインドフルネスの強化法、潜在意識の自己肯定感の強化法、そして身体を整えるヒントについて解説します。

【なぜ慈悲の瞑想を?】

慈悲の瞑想とは、生きとし生けるものの幸せを祈ることで自己肯定感を高め、マインドフルネスを強化する瞑想です。

マインマインドフルネスとは「今、ここ」の現実をあるがまま感じることです。

マインドフルネスであれば思考や感情もあるがままに感じています。

自分の思考や感情を一定の方向に向けて導いていくやり方はマインドフルネスではありません。

しかし、間接的にマインドフルネスを強化する効果があるので、多くのマインドフルネス瞑想家たちは呼吸瞑想と慈悲の瞑想を併用しています。

毎日の呼吸瞑想には慈悲の瞑想を行っています。

またセミナーなどでも呼吸瞑想の前に慈悲の瞑想を参加者全員で唱和することがよくあります。

本格的な呼吸瞑想のワークの前に慈悲の瞑想を紹介するのはそのためです。

マインドフルネスを強化するコツはマインドフルに時間を過ごすことです。

つまり、マインドフルに何かをするということ自体がマインドフルネスを強化するのです。

したがって、自動操縦モードでぼんやりと慈悲の瞑想をしてもあまり意味がありません。

それは自動操縦モードで呼吸瞑想をしても意味がないのと一緒です。

さらに慈悲の瞑想には自己肯定感を強化する効果もあります。

他人を慈しみ、他人の幸せを祈れる人は自己肯定感が強い人です。

逆に、他人の幸せを祈ろうとする行為には自己肯定感を強化する効果が期待できるのです。

他人の幸せを祈ろうとするとき、潜在意識には「他人の幸せを祈る自己肯定感の強い自分」が暗示されます。

自己肯定感が強い人だからできることをしている自分もまた自己肯定感が強い人になるということです。

【慈悲の瞑想】

・全文まずは慈悲の瞑想をご覧いただきます。

慈悲の祈り(慈悲の瞑想)

私が幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとが叶えられますように

私に悟りの光が現れますように

私が幸せでありますように(3回)

私の親しい人々が幸せでありますように

私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい人々の願いごとが叶えられますように

私の親しい人々にも悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように

生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように

私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように

私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように

私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように

私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

各段落の最後に(3回)ととかいてあるのはその一文だけを3回読むということです。

たとえば「私が幸せでありますように(3回)」は「私が幸せでありますように、私が幸せでありますように、私が幸せでありますように」と3回つづけて読み上げます。

なぜ私から?

「私が幸せでありますように」

慈悲の瞑想の最初の一文です。

慈悲とは慈しみの心であり、すべての人々、生きとし生けるものの幸せを祈る心です。

ところが私の幸せから始まっています。

なぜでしょう?

自己肯定感の弱い人の中にはこんな人がいます。

「私はあるがままの自分を自分では肯定できません。そんな私を肯定してもらうために、私はあるがままの自分を否定していわゆる良い子になります。だから私を肯定してください」

自己肯定感が弱い人が他人の幸せを祈ろうとすると、そこには打算がうまれます。

つまり自分を肯定してほしいという気持ちです。

「ノー」と言うときに罪悪感を感じてしまうのです。

「自分さえ犠牲になれば丸くおさまる」

「自分の欲求を殺して人の言うことを聞く」

「ほしがりません!」

「いやがりません!」

そんな気持ちと慈悲は違います。

お互いに依存し合う関係になってもだれも幸せになれません。

他人の幸せを祈るためには、まず自分が幸せであることが必要です。

自分が幸せだから人の幸せを祈れるのです。

そこで慈悲の瞑想の最初の文です。

私自身の幸せをまず祈ります。

「私が幸せでありますように」

幸せが実感できますか?

【幸せとは何?】

幸せとは何でしょう。

人によってそれぞれ感じる幸せは違うでしょう。

「ああっ!この悩みさえ解消してくれたらどんなに幸せだろう!」

たとえば、悩み事がある人はきっとこう思うでしょう。

「この痛み、苦しみさえ治ってくれたらほかには何もいらない!」

病気やけがで苦しんでいる人はきっとこう言うはずです。

悩み苦しみがある人にとっての喫緊の課題は、その悩み苦しみが消えることです。

やがて事態は好転します。

絶対解決が不可能だと思っていた悩みもときがたつにつれて解決しました。

あんなに檄しかった痛みも徐々に消え去りました。

「ああっ!神様!ありがとうございます。私は幸せです」と。

かし、悩み苦しみが消え去ってしばらくたつとどうでしょう?

だんだんと別の欲が出てきます。

「あれもほしい。これもほしい」

「こんな夢がかなうといいな」

悩み苦しみがあるうちはそれさえなくなれば幸せだと思っていました。

しかし「のど元を過ぎれば熱さを忘れる」のことわざのとおりです。

運に恵まれ、努力を惜しまず頑張ればあれもこれも手に入るかもしれません。

夢もかなうでしょう。

「ああっ!神様!ありがとうございます。私は幸せです」と。

功成り名を遂げて一時は幸せを感じるかもしれません。

しかし諸行無常の言葉の通り、形あるものはいつかは崩れ、今度はせっかく得たものを失うのではないかと不安に思うようになるでしょう。

そして「もっと、もっと、たくさん手に入れなければ!」と欲にとらわれてしまうかもしれません。

せっかく手放すことができた悩み苦しみでしたが、また新しい悩み苦しみか発生するかもしれません。

悩み苦しみをかかえ、欲にとらわれているとき、私たもは幸せを感じるどころかネガティブ思考し、ネガティブ感情に巻き込まれているでしょう。

【永続する幸せはないのでしょうか?】

ネガティブ思考し、ネガティブ感情に巻き込まれているときにどうするか?

これが主題となります。

すなわちマインドフルネスです。

悩み苦しみをかかえ、欲にとらわれてネガティブ思考し、ネガティブ感情に巻き込まれているまさにその瞬間、そんな自分を客観視できたとしたらどうでしょう?

一歩引いた視点に立ち、冷静に自分を客観視するとき、悩み苦しみを手放し、欲から身を引いてほっと一息つけるはずです。

それがマインドフルネスです。

ところで悟りの光とは何でしょう?

あるがままの現実をくもりのないまなこで、あるがまま観ること、それが悟りです。

そして自分と自分を取り巻く世界をリアルタイムかつ客観的に観るマインドフルネスが悟りそのものです。

慈悲の瞑想の最終の文の悟りの光とはマインドフルネスのことだったのです。

慈悲の瞑想の最初の一段落をもう一度掲載します。

私が幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとが叶えられますように

私に悟りの光が現れますように

私が幸せでありますように(3回)

悩み苦しみがあるならばその悩み苦しみがなくなることが第一の幸せです。

それがかなえば次には願い事がかなうことが幸せになります。

しかしなくなった悩み苦しみはいつかもどってきます。

せっかくかなった願い事も、いったん手に入れた富もいつかは失われてしまう危険性があります。

だから悟りの光→マインドフルネスで心の平安を得るのです。

それが本当の幸せなのです。

【私から始まる幸せの連鎖】

私は幸せになれました。

しかし私の親しい人たちが苦しんでいたら、本当に幸せでしょうか?

きっと私は悲しく感じるでしょう。

たとえマインドフルであったとしても悲しさを感じないわけではありません。

その悲しさにとらわれてしまうことがないだけです。

親しい人々も幸せであってほしいと願うことでしょう。

幸せにしてあげたいと思うことでしょう。

そんなときに、悩み苦しみ、そして欲にとらわれている親しい人たちの幸せを祈れるとしたら、その人は幸せな人でしょう。

もしも自分がマインドフルでなければその人たちの悩み苦しみや欲に巻き込まれて共倒れになってしまいます。

親しい人たちの幸せを祈れるのはマインドフルに幸せを感じることができる人だけです。

しかし自分自身のマインドフルネスが完成するまでまっていてはいつになるかわかりません。

だから慈悲の瞑想では先に私の親しい人たちの幸せも祈ってしまいます。

他人の幸せを祈れるのはマインドフルなときだけです。

だから心を込めて、他人の幸せを祈る行為をとおして、自分自身のマインドフルネスを確立し強化する事ができるのです。

さらに、心を込めて他人の幸せを祈れるのは自己肯定感が強くて幸せな人だけです。

だから心を込めて、他人の幸せを祈る行為をとおして、自分自身の自己肯定感を強化し、幸せを実感することができるのです。

「情けは人の為ならず」ですね。

自分自身から始めて親しい人たちの幸せを祈ったら、その尊い祈りを一気に「生きとし生けるもの」にまで広げてください。

それはきっとそんなにむずかしいことではないはずです。

ここで二つ目と三つ目の段落を掲載します。

心を込めて読んでみてください。

もしかしたら胸に熱いものを感じることができるかもしれません。

私の親しい人々が幸せでありますように

私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい人々の願いごとが叶えられますように

私の親しい人々にも悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように

生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

【嫌いな人の幸せを祈れますか?】

ところがここで私が嫌いな人が出てきます。

嫌いな人や私を嫌っている人の幸せなんか本当に祈れるのでしょうか?

それどころか「不幸になれ」とまでかんがえてしまうかもしれません。

幸せなとき、人は微笑みます。

嫌いな人が微笑んでいるところを想像してみましょう。

とてもイメージできませんか?

では、最初からものすごく嫌いな人を想定して幸せを祈るのではなく、苦手な人くらいから始めてはいかがでしょうか。

私が嫌いな人にも大切な人がいるでしょう。

また、その人を愛している人もいるでしょう。

私が嫌いな人は、私には微笑まなくても、その大切な人に対してはきっと微笑んでいるでしょう。

私とは関係がないけれども、どうか幸せになって微笑んでいてください。

そう願うことはできそうです。

どうしてもイメージできないときは、言業だけでも良いので眩いておいてください。

嫌いな人の幸せを祈るなんてものすごくむずかしいことなのですから、最初はできなくて当然です。

あきらめずにチャレンジしてください。

そしてもう一度言いますが、最初はちょっと嫌いくらいの人から始めてください。

最初からものすごく嫌いな人でチャレンジするとくじけます。

慈悲の瞑想の4段目を掲載しておきます。

私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように

私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように

私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように

私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように

私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

あなたを嫌いな人やあなたを嫌っている人の幸せまで祈って、本当に生きとし生けるものの幸せを祈ったことになるのです。

マンドフルに慈悲の瞑想を唱えることができたとき、あなたのマインドフルネスと自己肯定感は格段に強化されることでしょう。

【慈悲の瞑想の活用法のヒント】

生きとし生けるものの幸せを祈る慈悲の瞑想について解説しました。

私たちはともすれば自分をせめがちです。

そんな自分から離れ、マインドフルに微笑み、そして慈悲の瞑想を唱えましょう。

親しい人たちが幸せそうに微笑んでいるところをイメージして唱えましょう。

できれば嫌いな人や自分を嫌っている人の幸せも祈りましょう。

彼らが浮せそうに微笑んでいるところがイメージできると効果はさらに増すでしょう。

慈悲の瞑想は呼吸瞑想など、マインドフルネスを強化するエクササイズの前に唱えるのが効果的です。

そのほかにも折に触れ、思い出したときに唱えると良いでしょう。

時間がないときは「私が幸せでありますように」や「生きとし生けるものが幸せでありますように」だけ唱えても効果があります。

これから人に会うときには、その人が幸せそうに微笑んでいるところをイメージしながら唱えるのはいかがですか?

「OOさんが幸せでありますように」と唱えてからその人と会えば、今までとは違って心が通い合う経験ができるかもしれません。

苦手な人、嫌いな人に会わなくてはいけないときにも試してみましょう。

新しい関係が始まるかもしれません。

バスや電車に乗ったら、乗り合わせた人たちのために祈るというのはどうですか?

明日の朝、出勤(通学)したときに、同僚や同級生のために祈ってみるのも良いでしょう。

何のために?

あなた自身がマインドフルネスを鍛え、自己肯定感を強化し幸せになるためにです。

↓ 参考書籍

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