【料理をすると遊びの本質が理解できる】
日本標準で考えて外国を見ると、欧米先進国はあらゆる意味でキメが粗いです。
物づくりであれ料理であれそうだ。
色彩一つとっても赤には紅、朱などさまざまな色別があり、昆虫の種類にも鈴虫、轡(くつわ)虫など一つひとつ日本語があります。
日本の伝統文化が繊細微妙なのは、女文字であった仮名文字を取り入れたことと関係があるのでしょう。
要するに日本文化は女性文化なのだ。
同時に日本文化は遊びの文化でもあります。
遊んでいる元気で楽しげな子供たちの声が聞こえると、大人の自分も思わず「ああ、遊びたいな」とわくわくした気持ちにさせられる。
こういう経験は誰もがもっていると思う。
だが、普段は仕事で忙しいから、遊びたい気持ちを先送りする。
定年になったら、好きなことをして遊ぼうと多くの人が思っている。
だが、いざ定年を迎えてみると、何をして遊べばいいのかわからない。
遊びも一定の修錬が必要だ。
仕事一筋できた人間が「今日からは思い切り遊んでもいいですよ」と急にいわれたって、戸惑うのは当然なのである。
残念なことは、多くの先輩がそういう経験をしているのに、あとに続く世代も同じ轍(てつ)を踏もうとしていることだ。
この悪循環を断ち切るにはどうしたらいいか。
著者は家庭で男も家事をやってみるのが一番だと思っている。
中でも料理が一番のお勧めだ。
月に一度でいいから、休日などに一家の夕食を自分で作ってみるといい。
それだけの腕がない人は、できるようになるまで自分で練習するなり、奥さんに教えてもらったり、料理教室へ通うのもいいだろう。
仕事一筋の人は「とんでもないこと」と思うかもしれないが、遊び心を養うためには料理ほど都合のいいものはない。
繊細微妙な細部に気を配らねば、よい料理はできないからだ。
遊びに特別な才能はいらない。
些事(細かいこと)に強くなればいいだけなのだが、料理でそれを磨けるのである。
たとえば、渡辺淳一さんの小説「愛の流刑地」は、男女の営みの微細な部分が、これでもかこれでもかと出てくる。
読んでいて「なるほど」と感心させられるが、「女性が趣味」でないと、とうてい気づかない微細さである。
遊ぶとは「細部を味わうこと」という意味がよくわかる。
遊びが上手になるには、細部を味わう練習をすればいい。
その素材として著者が「料理」を勧めるのは、他のものと違って気持ち一つで誰でもやれることだからです。
どこの家にも厨房はあり、食事をしない人はいない。
料理というのは、一生追究してもきりがないほど奥深く、また文化的な香りも高い。
上手になれば、家族や友人たちからも喜ばれる。
高齢になって一人暮らしをする際にも役立つ。
何ーつマイナスはなく、いいことずくめなのである。
人生は些事の連続であり、些事をやり過ごしてしまう人もいるが、些事を味わえるようになると、人生の楽しみはぐんと増える。
しかも、生涯の伴侶となってくれる。
「人生を幸福にするには、日常の些事を愛さなければならない」と芥川龍之介もいっている。
遊び心とは些事を愛する心なのだ。
私は「一人暮らし」が長く、料理も一通りできます。というのも、若い時はお金もなく、自炊するしかなかったからです(笑)。それでも、他の人に作ったりしてもてなすと「おいしい」と言ってもらえてうれしかったです。「料理」を趣味にするのは周りの人も幸せにするのでおすすめです。
【子供に尊敬される遊び人になろう】
大人の男は遊び心をもて、と勧めているのだが、遊びの本質をよくわきまえてかからないと、遊びと家庭がなじまない。
お父さんが遊ぶようになって家庭がギクシャクするようでは本末転倒である。
世の中には私が勧めるまでもなく、大いに遊びまくつている男性が大勢いる。
そういう人の中には、かっこいい遊びを身につけた大人もいるが、とんでもないオヤジも混じっている。
しかも、最近はトンデモオヤジが増加している。
一例を挙げてみる。
あるオヤジが年端のいかない少女と援助交際の約束をし、待ち合わせ場所にのこのこ出かけていった。
そうしたら、待っていたのは高校に入ったばかりの自分の娘だった、というのである。
まったくあきれたオヤジだが、この話には続きがある。
なんでも「お母さんにバレないように」と、二人は共同戦線を張ったのだ。
こんなオヤジに育てられた娘の行く末が思いやられる。
しかし、だからといって、お父さんたちに「風俗で絶対遊ぶな」などと野暮なことはいいたくない。
大切なことは、どんな遊びをするにしろ、私はお父さんたち家庭にあって男は父親としての威厳を失ってはならないということだ。
そのためにはどうしたらいいか。
子供に尊敬されるような遊び方をすることである。
理想の遊びのスタイルは、親の遊びの姿勢が、そのまま子供の手本になるような遊び方である。
子供がどう考えるかは、親がどう考えるかにかかっている。
子供がどう行動するかは、親がどう行動するかにかかっている。
だから、親は子供の生きた手本でなければならないのだ。
こういうと「そんなこと可能でしょうか」という人がきっといると思う。
確かに悛助交際、風俗通いの父親が、娘や息子に偉そうなことをいっても、子供は聞く耳をもたないだろう。
休日といえばパチンコ通いの父親、浮気がバレて揉めている両視、こんな親たちにまともな子供の教育などできい・・・
こう思うのが世の常識だ。
だが、私はできると思うのだ。
というより、もしできないとしたら、世の大半の父親には子供の家庭教育ができなくなるに違いない。
今は一見するとそういう状態になっているが、これは親の行状の問題なのではなく、親の心構えが悪いのである。
よく考えてみてほしい。
昔は売春が合法化されていた。
奥さんは決して喜びはしなかったが、女遊びは男の甲斐性でもあった。
妻も浮気をしたし、ギャンブルに狂う夫も、酒に溺れる父親も大勢いた。
今も昔も家庭の状況にそんなに差はないのだ。
マスコミはいつでも悪い側面だけつの取り上げ、新しい傾向のように言い募(つの)るが、人間がすることに大した違いのあろうはずがない。
にもかかわらず、昔はそこそこできて、今、子供の家庭教育がきちんとできない理由は何なのか。
親が遊び下手になったからだ。
では遊び上手と遊び下手の差はどこにあるか。
それは親の態度が毅然としているかどうかにかかっている。
たとえば、昔の家庭には、親の領域と子供の領域が厳然としてあった。
「この部屋に入ってはいけない」「この引き出しは開けてはいけない」こういうダブーがあった。
入っていけない部屋は夫婦の寝室であり、開けてはいけない引き出しには、どんな秘密の品が隠されているかわからなかった。
タブーを破ると激しく叱られるから、子供はおおむねそれを守った。
そういう躾(しつけ)が小さいときからされたから、子供は「大きくなるまで触れてはいけない大人の事柄や領域があるんだ」ということを学んでいた。
ところが今は家庭にタブーがない。
タブーを設けられないのは親が毅然としていないからである。
政治評論家の屋山太郎さんが、ジュネーブで家族と暮らしていたときの体験こんなエピソードを語っていた。
スイスの学校の成績表は「学業」と「操行」が同じ重みで扱われる。
勉強も大切だが、日頃の行ないも同様に大切ということだ。
屋山さんの子息の同級生にいたずら少年がいて、ときどき「操行」落第点を取る。
すると家で父親からボコボコにされるのだという。
父親は、「学業が悪いのは頭が悪いのだから仕方ない。しかし、操行が悪いのはお前が悪い!」といって殴るそうである。
これが親のけじめというものだ。
しつけ教育はこうでなくてはいけない。
この父親だって操行面でパーフェクトあるはずがない。
だが、自分のことは棚に上げてどんどん叱っている。
私はそれでいいのだと思う。
「そんなことは大人になってからやれ。自分で稼ぎもできないガキが大人の真似をするんじゃない!」とどなりつければいい。
屋山さんは「自分が立派だと思う家風を作れ」といっているが、この意見に著者も賛成だ。
他人がどう見ようと、父親が自分なりの家風を作ればいいのだ。
今の父親はその努力が足りない。
「殴る」というのは、さすがに今のご時世は良くないのかもしれませんが、個人的な意見として「場合による」と選択したいと思います。私は古い人間なので、子供の頃「悪いこと」を良くして、大人に殴られました(笑)。大人になってから「あの時、真剣に叱ってくれた」と感謝している自分がいます・・・複雑ですね・・・でも、「大人の威厳」は暴力ではなく、他の面で発揮したいものですね。
【理想のオヤジの三点セットとは何か】
戦後のサラリーマンの多くが、家庭をないがしろにしてきたことは否定できない。
むろん悪気があってのことではない。
「妻のため、子供のために」と思ってがんばってきたのだ。
しかし、その真意は必ずしも家族に伝わらなかった。
結果的には、仕事以外のことを奥さんにすべて押しつける形になってしまったからだ。
だが、今からでも遅くない。
家庭を顧み、奥さんや家族とうまくやる努力をしたほうがいい。
そうでないと定年後の人生がつらくなる。
しかし、そうはいっても「今さらなあ」と躊躇する人もいると思う。
そういう人は、どう振る舞えばいいのかわからないのだ。
そこで一つの目安を提示してみようと思う。
ここに「理想のオヤジ」像というのがある。
エッセイストの中村うさぎさんが作ったものだ。
私には「なるほど」と合点がいったので、以下にそれを紹介する。
・媚びない(徒党を組まない)
・愚痴らない(自分を憐れまない)
・エバらない(ただし、いいたいことはハッキリという)
この三つをいつも念頭に置いて努力するのだ。
「なんだ、簡単なことじゃないか」と思う人がいるかもしれない。
あるいは「自分は普段から、そんなことはしてないぞ」と思う人もいるかもしれない。
だが、胸に手を当ててよく考えてみれば、誰もが結構やっていることに気づくはずだ。
なぜかというと、会社というところは、媚びて、愚痴って、威張っても通用してしまう世界だからである。
媚びたほうがかえって上司のウケがいい。
愚痴るのはストレス解消になるから、酒の席ではみんな愚痴をこぽす。
上役や会社の悪口は格好の酒の肴になるからだ。
まだ、どんな職場にも威張っている人間はいる。
威張る人間と肩びる人間は相性がいいから、ますますエスカレートする。
こんなわけで、会社という組織の世界に身を置いていると、理想のオヤジからどんどん離れていくことになる。
だからといって「さっそく今日からやってみよう」と、職場でこの三点セットを実行したらどうなるだろうか。
根気よく実践して自分の個性にしてしまえば、いつかはかっこいいオヤジになれるかもしれないが、周囲の理解がないと、なかなかできるものではない。
職場の壁に貼紙でもして、「みんなで努力しましょう」とやれば別だが、一人で始めたらたちまち浮き上がってしまうだろう。
評価を得る前に、職場から去ることになるかもしれない。
それでは元も子もない。
一つよい方法がある。
それは家族を相手にやってみることだ。
今は子供に媚びている親が結構いる。
甘やかされてダメになる子の親は子供に媚びすぎだから、すぐにやめる。
そうすれば親としての威厳が取り戻せるだろう。
奥さんに愚痴るのもやめよう。
会社でイヤなことがあると、家に帰って奥さんにぐだぐだ愚痴る亭主がよくいる。
賢い奥さんは我慢して聞いてくれるが、亭主の株は確実に下落している。
やめればきっと株は上がるはずだ。
それから、家族に威張る亭主も結構いる。
会社で威張られている人ほど、その反動か、家で家族に威張る。
その結果、子供たちからかなり反発を買っているはずだ。
これもやめれば人気回復につながる。
家族から「うちのお父さんって、かっこいいな」と思われることは、すごい自信につながる。
その自信は職場でもよい形できっと出てくる。
同世代で同じ仕事をしていながら、年齢を加えるに従って、かっこよくなっていく人としょぽくれてくる人がいる。
この差は家族の評価の差かもしれない。
夫として、父として家族から評価されている人間は、たとえ会社で出世しなくても、毎日気分よく仕事ができる。
ストレスにも強い。
そういう人は加齢に伴って、いぶし銀の魅力をたたえるようになる。
逆に家庭で評価が低いオヤジは、ストレスがたまっているから、会社でも威張ったり、愚痴ったりする。
そのせいで人間関係がうまくいかず、ますますイラつくという悪循環に陥る。
そういう人はいつまで経っても魅力的な男にはなれない。
誰もが歳をとる。
歳をとるとは車でいえば古くなっていくことです。
しかし、同じ古い車でもクラシックカーとして評価される車もあれば、単なる<たびれた中古車として誰からも振り向かれない車もある。
同じ古くなるなら、誰だってクラシックカーのようになりたいと思うはずだ。
その分かれ目は、仕事以外の人生をどう過ごすかにある。
仕事以外の人生が充実していれば、会社でも媚びたり、愚痴ったり、威張ったりする必要はない。
そういう人生を送るカギは、実は身近にあって、それは家族との関係や趣味や道楽などの遊びなのだ。
↓ 参考書籍
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