時代劇を見ていると、長屋で暮らす庶民の生活が実にシンプルだったことに気づかされる。
わずかな食器類と火鉢に小さな物入れ箱、部屋の隅には布団、あと行李(こうり)一つくらいに思い出の品や大切なもの。
大体こんなものだ。
武家の生活だって、それほど物があるとは思えない。
当時の物持ちは蔵をもっていた商人たちだけだったのではないか。
職人は道具箱さえあれば、どこへでも移動できただろうし、浪人中の武士などは文字通り着の身着のままだ。
それでもちゃんと生活していけた。
シンプルライフは人生を楽しむうえで、見直してみる価値があると思う。
こんなことを言い出したのは、戦後の日本人が世界のどんな国の人よりも物をもちすぎていることがわかったからだ。
今から十年くらい前に出版された一冊の写真本がある。
「地球家族」(TOTO出版)という本で、世界30ヵ国の庶民が、どんな物を所有して暮らしているかがわかるようになっている。
その表現法が面白い。
その国の平均的な家庭の家族全員に、自分の持ち物を全部家の前に並べてもらい、それを背景にして一家の写真が撮られているのだ。
つまり、引っ越し前の一家の荷物が、荷造りしないまま並べられたような光景が写されているのである。
当然、それぞれの国のお国柄がよく出ているが、日本の家族の特徴は、とにかく物の多さだったのだ。
よその国より住宅は小さいのに、びっくりするほど物が詰まっていた。
しかも、その物は情緒に乏しい工業製品ばかり、十分予想のつくことだが、物の多さが幸福につながらないことは一目瞭然だ。
狭い居住空間に物をそんなに抱えていても、使うものなど高(たか)が知れている。
着るもの一つとっても、何年も袖を通すことなくタンスの中で眠りっぱなしの衣料がどれだけあることか。
いらないものばかりを日本人は抱え込んでいるのである。
物では他界トップクラスの豊かさを誇る日本人が、それに比例して幸福度が増したとはいえない理由がこれではっきりわかる。
むしろ物持ちになったぶん、不便で面倒な生活を手に入れてしまったのかもしれない。
物をもてば場所はとるし、整理は必要になるし、メンテナンスしなけれぼならないものもある。
税金がかかるものもあれば、保険をかけなければならないものもある。
おまけに壊れたり、盗まれたり、あるいは住人に害を与えないために、相当の気配りをしなければならない。
これではまるで倉庫番の生活だ。
もう一度、自分のもっているものを見直してみよう。
そして一年に1度も使わないようなものは処分してしまおう。
江戸時代の長屋レベルにまでシンプル化することは不可能だが、判断の尺度にはなるはずだ。
日本人は近代国家になる以前は、決して経済的に豊かな国ではなかった。
もともと資源が乏しいうえ、国土も狭い。
創意工夫と節約によって、それをしのいできた。
この環境がシンプルライフの文化を育んだ。
だが、戦後にアメリカの圧倒的な量的モノ文化に触れて、その方向へと走り出した。
その結果が莫大な物を家の中に仕舞い込む死蔵癖である。
アメリカは伝統的に使い捨て文化だからいいが節約を尊ぶ日本人には似合わない。
物がなくても楽しめる伝統文化が日本にはある。
それが戦後、もちつけない物をたくさんもってしまい、楽しむことを忘れてしまった。
今ある物を整理して、人生そのものを楽しむことを思い出そう。
物の所有だけが人を幸せにするのではないことは、もう十分に経験させられたのではないだろうか。
↓ 参考書籍
コメント