もっと自分の都合でお金と時間を使え

心理・思考・時間



「子供のためにお金を遺すことはしない」


こう考える親が増えている。


私はいい傾向だと思う。


財産を子供のため、子孫のために必死に遺そうとした時代は、決して生きやすい時代ではなかった。


だから自分の生きるつらさを子供たちに味わわせたくないと親は考えたのだ。


ところがこの親心は皮肉な結果を招く。


苦労しないで財産だけ受け継いだ子供は、せっかくの親の財産を、ろくでもないことに費やし、親心を裏切ることが多かった。


それでも親は子供のために財産を遺して死んでいった。


それで満足できたからだ。


今はどうか。


以前と同じように考える親もいる。


だが、「子供に財産を遺さない」という親も増えてきている。


この考えがなぜ正解かというと、昔ほど生きにくい時代ではないからだ。


別に親に財産を遺してもらわなくても、子共よ立派に生きていける。


また、財産をいくら遺しても、子孫まで引き継がれない。


今の税制からいけば、三代経てば莫大な財産はなくなる。


税制がそうなっているからだ。


遺しても無駄。


そうなったのは「家制度」がなくなったことも大きい。


財産を遺すといっても、一般庶民が遺せる額など高(たか)が知れている。


家一軒と若干の預貯金、有価証券くらいのものだ。


中途半端なお金を遺して子供に楽をさせると、ろくな人間にならない。


「自分で使ったほうがまし」は正しい考え方なのだ。


自分が築いた財産を自分のために使って、老後を充実させるのはいいことだ。


ただ、マンションにしても家のような財産は、遊びのためには使えない。


住んでいたら「どうにもならない」と今までは考えられてきた。


だが、最近、自分の家に住みながら、その価値をお金に換えることができるようになった。


それがリバース・モーゲージという制度である。


親が自分の持ち家を担保にお金を借りる制度だ。


貸し主は主に地方自治体だから、借りても危ないことはない。



死ぬとその家が貸し主に移るので、子供は家を相続できなくなるが、借金はその時点でチャラだから子供への負担も一切ない。


お金は持っているだけでは意味がない。


使って初めて生きる。


子供に遺さないとしたら、あとは自分で使うか寄付しかない。


寄付も立派なことだが、自分の楽しみに使うのが最も自然な形だ。


自分で稼いで自分で使う。


死ぬときはきれいにゼロにする。


そういう考え方を実践するにはリバース・モーゲージ制度を利用するのがいいと思う。



アメリカにも使い切って死ぬという考え方がある。


ダイイング・ブローク(dying broke)、訳せば「死ぬ間際での破産」という意味。


そして、もしその時点で財産が遺れば寄付してしまう。


お金持ちでもどんどん寄付するアメリカ人らしい考え方である。


一方、日本人は昔から「貯蓄好き」といわれてきた。


これは基本的に貧しかったからだ。


だが日本もこれだけ豊かになったのだから、もう少しお金を上手に使う知恵を身につけたほうがいいと思う。


個人のお金には三つの性質がある。


「守るお金」


「楽しむお金」


「育てるお金」


の三つだ。


現役時代は家族を守ることと、子供を育てることに大半が費やされる。


だが、子供が巣立って夫婦二人になると、楽しむお金の比重を増やせるようになる。


ここで問題になるのは、リタイアしてしまうと収入がなくなることだ。


年金と蓄えでこれから何十年・・・と思うど、結構消極的になる。


そのときリバース・モーゲージ制度を利用すれば、家一軒分を住みながら現金化できるのだ。


限度額は上限が月30万円と決まっているから、一度に大金を手にして使い果たしてしまう心配もない。


いってみれば、新しい年金を自分で作り出すようなものだ。


今の時代は普通に生きる限り、子供は子供でちゃんと生きていけるのだから、もっと自分の楽しみのためにお金を使うことを考えよう。


そうすればリタイア後の人生は輝いてくる。


【長生きするだけでは何の意味もない】


最近、アンチェイジングという言葉が盛んに使われる。


「可能な限り老化を止めて若々しく生きよう」というほどの意味だ。


趣旨はまことに結構だが、次のような反対意見もある。


「若く健康なときには、若く健康なときの経験がある。老いて病んだときには、老いて病んだときの経験がある。そのときそのときの経験を、時間軸に沿って経験するから、人間は賢くなるのである。人生は味わい深くなるのである。老いを拒絶し、思索も知らず、若さと健康の快楽にしがみつき続ける人間とは、早い話がサルである」


惜しくも亡くなられた哲学者、池田晶子さんのエッセイからである。


こういう考え方にみんなが賛成するとは思えないが、アンチェイジング、アンチェイジングと、そちらにばかり頭がいくのは馬鹿げていると私(著者)も思う。


人生もリタイア年齢を迎えたら、残りはそうないから、何をやるのも「・・・がてら」でやるべきだ。


アンチェイジングも結構だが、それに反する遊びや趣味もやってみるほうがいい。


たとえば、散歩をしながら、趣味のカメラで草花を撮影してみるとか。


アンチェイジングのためだけに、老体にムチ打ってマラソンなどをするのはもってのほか。


もっともその途中で心臓マヒでポックリいくことを願っているなら別だが。


何をするにしても、若いときと高齢とでは、自ずと違ってこなければならないたずらい。


若さと健康を取り戻そうと思っても所詮無理な話。


といって、ただ徒(いたずら)に長生きするだけでは何の意味もない。


確かに今はアンチェイジングの技術が進んできている。


科学の進歩が人を若々しく長生きさせる方法をいろいろ開発している。


たとえば、ある種のホルモン療法を上手に施すと、肉体的に二十年から三十年老化を食い止めることができるらしい。


百歳の老人なのに、どう見ても七十、八十歳にしか見えない人がいることを考えると、人間の年齢観は大幅に変える必要があるのかもしれない。


しかしアンチェイジングは、決して高齢人生の目的にはなり得ない。


そのことをしっかりと頭に入れておく必要がある。


「いずれ年をとり、深いしわが顔に刻まれようとも、いきいきと美しくありたいものです。いつもにこにこと微笑んでいられるような毎日を送っていれば、顔にはいつの間にか微笑みのしわが生まれます。老いて一層、心の内面は顔に表れます。微笑みのしわを増やせるように・・・」


百歳現役の医師日野原重明さんは、著書「生きかた上手』(ユーリーグ)でしおこう忠告しておられる。


私は「花の萎れたらんこそ面白けれ」といえる人生のほうがいい。


↓ 参考書籍

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