なぜ?「一番大事なもの」まで犠牲にするのか

心理・思考・時間


あなたはこれから先、他人の意志に左右されて生きていく必要はない。


ましてや他人の犠牲になって生きていく必要など、さらさらないはずだ。


けれど、誰の犠牲にもならず、他人に左右されずに自分の意志を貰いて生きていくためには、何よりもまず、自分自身をしっかり見つめなければならない。


そして、自分の心をあやつる糸が他人の手によって勝手に引きまわされている現状の数々を、はっきりと認識しなければならない。


まるであやつり人形のように生きてきた自分を、見つめ直すのだ。


他人の意のままにはなるまいと決意したからといって、ただ単に自己主張すればいいというものではない。


自己主張の方法やテクニックについて書かれたものを丸暗記しても、何の役にも立たないのである。


また、あなたの言動に異を唱え、あなたをまるめ込もうとする相手に対して、食ってかかることでもない。


要はそれ以上の、しっかりした個人哲学を身につけておかなければならないということだ。


誰でも知っていることだが、この地球という惑星では、人間同士が互いに相手を支配しようと日夜絶えまなく争いつづけている。


事あらば支配してやろうと、手ぐすね引いて待ちかまえている。


そして人間は、この支配という行為を、実に巧みに行なう独特の制度をも開発してしまった。


しかし、この制度に甘んじて、他人に支配されるがままに生きているのならば、あなたは結局は犠牲者にすぎないことになる。


自分の気持ちに反して他人の意のままに動いたり、人並みな判断力をそなえていながら人に支配されるのは、やはりみじめなことだからである。


みじめな犠牲者にならないことも、また逆に犠牲を強いる加害者にならないことも、やろうと思えばできることなのだ。


ただそのためには、この短い人生の間に、あなたが自分自身に何を期待しているのかをしっかりと再認識しておく必要がある。


そのうえで、まず「他人の意のままになる犠牲者」には決してなるまい、と強く決意することだ。


そして、自分が今、そのような犠牲者としてどのような行動をとっているかを見つめ直してみよう。


【自分を持っている人は他人ともうまくやれる】


自分の自由は何としても守り通さなければならない。


他人から受ける一見取るに足りない些細なことのように思える犠牲が、実はあなたの自由を奪おうとするたくらみなのである。


それらが、気がつかないほど短時間の間になされようが、また、いかに好意的に行なわれようが、結局はあなた自身をあやつる危険な糸となってしまうのである。


しかし、あなたが自分の意志で自由を選びとるようになれば、他人の犠牲にはならないしっかりした心構えを持ち、それに見合った言動ができるようになるはずだ。


そうすれば、いたずらに周囲の奴隷になるのではなく、むしろ周囲のさまざまなものから解放されるような習慣が身につくはずである。


自由な人生を実現する一番いい方法は、あなたの生活を支配しようとする人がいたら、その人間に信頼をおかないことだ。


これが基本である。


エマソンが『自己信頼』で言っているように、「あなたの平安をもたらすのは、ほかならぬあなた」だからである。


長い間患者の治療をしていて、著者は次のような嘆きをよく耳にした。


「何とかすると約束したのに、結局、彼女には裏切られてしまった」


「彼にこの種のことは任せるべきではなかったんだ。彼にとっては些細なことかもしれないが、私にとっては大変重要なことだったのだから」


「またあいつにひどい目に遭わされた。われながら、いつになったら懲りるのかと思う」


これらは、さまざまな形で他人の犠牲になることに甘んじたがために、結局は自分の自由を侵されてしまった人たちのみじめな声なのである。


ただ、ここで一つ断っておきたいのだが、私は、自由であるためには、どんな場合でも他人と接触してはならない、と言っているわけではない。


現実には、むしろ逆の場合のほうが多い。


他人の犠牲にならずに自由でいられる人たちは、他人と一緒に楽しむのが好きなのだ。


彼らは、どちらかといえばパーティーを盛り上げる社交家である。


しかも、大勢の人たちの中にあっても、決して神経質にならずに落ち着いている。


それもこれもみな、彼らが、他人の意図にあやつられ、自分の生活を支配されることを断乎(だんこ)として拒否しているからなのだ。


彼らが、わずらわしい他人に対して険悪な感情を持ったり、あるいはダラダラと不平を述べたてたりしないのは、「私には私の人生がある。それは、私が生きている限られた時間の中で、ほかならぬ私一人が経験することだ。私は、私以外の誰にも所有されない、私だけの存在なのだ」と、心底感じつづけているからだ。


そして彼らは、「だから、私が私であるための権利を奪おうとするものは、すべて警戒しなくてはならない。もしも私を愛するというのなら、このようなあるがままの私を愛してほしい。言う通りになるから愛しているというのなら、むしろ愛してもらわないほうがいい」と考えているのである。


彼らの持っているこの「健全な自由」を、はたしてあなたは自分のものにすることができるのだろうか。


社会や他人の犠牲になりがちだという、あなたのこれまでの悪しき習慣を脱することができるのだろうか・・・

佐藤さん

今の現代では、ひと昔前の「常識」は通用しなくなってきていますね。「親」「教師」の言うことを聞く、「肩書き」「学歴社会」・・・もう、そんな時代も過ぎ去っていくのでしょうか?「個人」を大事に、「個人」主張してもっと面白い世の中になったらいいのに・・・


↓ 参考書籍

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