【幸運の秘訣】 こう考えればいつも「ツイている日」に

心理・思考・時間

変に聞こえるかもしれないが、自分の手で自分自身を犠牲にしているものである。

人々は、現実そのものではなく、現実に対する自分の信条や姿勢のほうに重きをおいてしまい、そのために犠牲になってしまっている。

「あなたもそうした人々の1人だ」と私が言えば、たぶんあなたは否定するに違いない。

けれども、否定する前によく考えてみてほしい。

ほとんどの人が、現実についての「解釈」のことばを、あたかも現実の反映であるかのように毎日つかっているということを。

たとえば、よく「今日は本当にひどい(よい)天気だ」と言う。

一見なんてことのないようなことばだが、実際は「現実に基づいたもの」ではない。

なぜなら正しくは、その日ははあなたの解釈次第で「ひどい天気」にも「よい天気」にもなるからだ。

あなたが表現しようと決めた通りの日になるのだ。

あなたが雨の日はひどいと考えれば、雨の日に関してはそのような解訳になるだろう。

そして、農業を営む人などを除いて、世界じゅうのほとんどの人があなたと同じように考えることだろう。

けれども、真実はどうかと言えば、その日はあるがままの日にすぎない。

あなたがひどい天気と解釈しようがしなかろうが、そのことはその日とは何の関係もない。

あなたがどう解釈しようが、その日は、その日以外の何ものでもない、まさにあるがままの姿でしか存在し得ない。

このような現実とその解釈の話など、犠牲の問題と具体的にはあまり関係がないと思えるかもしれない。

また、「ひどい天気」がどうのといった、得にも害にもなりそうにない意見を聞かされれば、誰だってなんと無意味なことを言っているのだろうと思うだろう。

しかし、現実とその解釈とが混同され、それがあなたの生活に適用された場合、一見無意味とも思えるこの話が重要になってくる。

とくに、あなたを犠牲にし得るような場においてはなおさらである。

たとえば、ちょっとした雨があなたの心に一日じゅう暗い影を落としている状態を考えてほしい。

ちゃんとした理由があるわけではなく、ただ雨が降っただけで、である。

このようなとき、もしもあなたが現実と自分の考えとを同一視し、そのことに何の疑いも持たずに生活するとしたらどうなるのか。

きっとあなたは、倉庫いっぱいもの苦悩を自分に課し、それを受け入れて生活するはめになるだろう。

世の中が自分の望み通りになってほしいと思っているのに、物事が思うように運ばなかったり、あるいは今までのように進まなかったりしたとき、さらにもっと悪い場合には、主張したように運ばずにカッカしてしまうときこのようなときに心の葛藤が生じるのである。

現実とは、まさしく現実そのものの姿であらわれるということを理解し、世の中があるがままに回っているということに対して気分を害したりしないこと。

そうすれば、このような心の葛藤や苦悩は自然となくなる。

現実とは、あなたが何を要求しようが、どう主張しようが、それらとはまったく関係がないものである。

あるいは、あなたが、現実はこうあるべきと考え、その解釈で身動きできなくなろうがどうしようが、まったく関係ないのである。

だからといって、何も現実に起こる不正を改善してはならない、と言っているわけではない。

不健全だと思っている部分をよくしてはならないという意味ではない。

なぜなら改善と進歩こそが成長の核ともなるものだからである。

しかし、すでに起きてしまったことは、もう「過ぎ去った」ことだ。

そこから何かを学ぶことはできるにせよ、そのことでカッカする価値はない。

このように認識することである。


そして、現在すでに進行中で、もはやあなたには変えようのない事柄についても、やはり心を痛める必要はない。

その価値もない。

だから、良いとか悪いとかと、その評価で頭を悩ます必要などない。

あなたが予想した通りのことが起きることもあるだろう。

また、自分の力でまだどうにかできることなら、改善すればよい。

しかしくれぐれも、物事をむりやり別の状態に変えようとしたりしないことだ。

そして、思い通りにならないからといって、欲求不満に陥ってはならない。

現実のことについて常に呪いのことばを吐いているような人は、意味のない憤慨や欲求不満だらけの人生を送るようにと、自分自身で運命づけているようなものなのだ。

そういう人たちは、以下のようなことを言って、自分自身を犠牲にしてしまう傾向がある。


「こんなことが、今、起こっていいはずがない」

現在すでに起ぎでいるにもかかわらず、このようなことは起こってはならない、などと言ってカッカとする。

これでは犠牲になるだけだ。

現実が違う姿であってほしいというのは、単なる願望だ。

そんな願望がもとでカッカとなればなるほど、神経症という鎖があなたをがんじがらめに縛りつけることになる。

そんなことを言うのはやめて、代わりに、こう言ってみることだ。

「これはたった今、起こっていることだ。食い止められるならばそうする。そうでなければ二度と起こらないように配慮しよう」

「この世は残酷なところだ」

世の中をそのまま受け入れずに、「残酷なもの」と解釈する人は、世の中自体は残酷なものでも何でもなく、ただあるがままだという事実を無視している。

「残酷」であるとかないとかという分類は人間がつくったもので、望むように事が運ばないのを世の中のせいにするときにつかわれる。

世の中をどう呼ぶかはあなたの自由であり、そのことでカッカしようがそれは一向にかまわない。

どう呼ばれようと、世の中はあるがままの姿をつづけるだけなのである。

だから、もっと現実的な考え方をしたほうがいい。

「この世の中には、変えたいと思うことはいっぱいある。だから、変えるように努力しよう。ただ、変えられないものについては無理をせず、多くを期待するのはやめよう。いやなことには目をつむればいい。期待していると結局はいつも裏切られてしまうから」

「みんな意地悪く、不親切だ」

「意地悪」とか「不親切」ということばは、カッカさせられて誰かのやり方を非難するときにつかわれる。

たしかに人は、あなたなら決してしそうにないことや、あなたから見れば非難されてしかるべきことをしばしばする。

あるいは、もっと悪いことまでやってしまう場合もある。

だが、あなただけは決して人にそのようなことをしてはならない。

そして、彼らの行為によって、あなたやその他の人が権利を侵されることのないようにしなさい。

もしも侵されるようならば、その行為をやめさせるために、できるだけのことをする。

それはよいだろう。

けれども、そのような行為をしたからといって、あの人はこういうタイプだなどと分類してみたり、あるいは、そういう人間がこの世に存在するという理由だけでカッカしたりするのはやめなさい。

束縛されて、エネルギーを浪費するだけである。

そしてさらには、やめさせられずに結局はサジを投げ、そのあげくに、「世の中の人なんてだいたいが意地悪く、不親切なものさ」、などと言うのもいけない。

それは、あなた自身もふくめたすべての人たちに対する希望を捨てることだからだ。

あなたの人生そのものをもあきらめることになってしまうのである。

何らかのレッテルを貼るのなら、人間に貼るのではなく、その行為に貼ったほうが、まだ救いがある。

人間は変わっていくもので、一つところに常にきれいに収まっているものではないのだ。

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