「変わること」を恐れるな、億劫がるな!

心理・思考・時間

人生は一つの体験であり、したがって、そのときそのときではなく全体として良いか悪いかを判断されるべきものだと考えている人は多い。

このような考えは、自分自身を犠牲にする。

人生はたった一つの体験などではない。

そして常に変わりつつあるものだ。

一生のうちの一日一日が、そして一日のうちの一瞬一瞬が、まったく新しい何かを意味しているのである。

新たにあらわれてくる一瞬一瞬は、今まで存在しなかった瞬間だ。

だから、あなたの見方次第で、数えきれないほどの多くの楽しみが生まれる。

見方を決めるのはあなたしかいない。

ほとんどの場合、幸せにはなれない。

そういう人生を1つの体験だと考える人たちは、人は意識的にしろ無意識的にしろ、常に自分たちの人生を顧み、評価しようとする。

そしてこのことがすでに、現実からそむき、現在の瞬間をムダにすることなのである。

また、こういう人たちのほとんどは、他人は運がよくて幸福な人生を送っている一方で、自分は生まれながらにして不幸な人生を送るように運命づけられている、と考える。

そしてこの自分の運命は、どうあがいても変えようがないものだと信じきっている。


これに対して、人生をいくつもの体験の連続だと考える人たちは、まったく別の人生ゲームをすることになる。

彼らは、人生は永遠に変化していくものであるから、自分自身で操作が可能だと考える。

だからこそ、古い生き方などには固執せず、新しい生き方を探し求めようとする。

いかなる変化に対しても驚かず、むしろおおいに歓迎するのだ。

著者の人生でもっとも重大な転機の一つになったのは、何年か前、たまたま大学教授の助手として、45分間、研究室の管理をしていたときだった。

その研究室の後ろの掲示板に「成功は旅であり、目的地ではない」ということばが書かれていたのだ。

私は、まる45分間、そのことばを噛みしめ、心の底まで浸透させた。

その日まで著者は、人生というものを一連の目的地の連続と考えていた。

人生は出来事の連続で成り立っている、と見なしていたのだ。

だから、卒業も、学位取得も、成績も、結婚も出産もすべて、出来事の目的地だった。

つまり、人生という旅をしているのではなく、ただ単に、駅から駅へと運ばれているだけだったのである。

このとき以来、著者は目的地へ到達したかどうかを幸せの基準にしなくなった。

代わりに、自分の人生全体は絶え間なくつづく旅なのだと考えることにした。

そして、まさしく人生の一瞬一瞬は私が楽しむためにある、と考えることを誓ったのである。

人生は、その途上の成績で評価してはいけないのだ。

功績が平凡か、画期的かで判断してはいけないのである。

もし、功績などで人生を評価していたら、常に別の目的地を求めずにはいられなくなる

そのため常に欲求不満に陥り、現実に満足することは決してなくなる。

何をやり遂げようとも、ただちに次にやるべきことを計画しなければならなくなるのだ。

そして、自分がどれほど成功していてどれほど幸福なのかを計る新しいモノサシが、また必要になってくる。

そうではなく、心の目を覚まし、行く道の途上で出会うすべてのものを、じっくりと味わってごらんなさい。

あなたをよろこばせるために、花はそこに咲いているのだ。

それを楽しんでごらんなさい。

あるいは、日の出や子供たち、彼らの笑い声、雨やまた鳥たちに心の波長を合わせてごらんなさい。

今を味わい尽くすことだ。

安心してくつろげる地点に到達するまで待つ必要はない。

それらは、永遠に手の届かぬ未来でありつづけるものだ。

そんな地点に到達するまで待っていないで、今を味わい尽くしなさい。

成功というものもまた、人生そのものと同じく、瞬間の集まりでしかないのだ。

私たちは一度に一つのものしか楽しめはしない。

そういう瞬間が集まって成功となり、ひいては人生となっていくのである。

このような原則さえ理解できれば、成功するために今を犠牲にするなどといった姿勢は激減するはずだ。

あなたの幸福は、成功を基準として考えるものではない。

幸福とは、人生という旅全体を楽しむことなのである。

つまり、幸福へ至る道などはない。

幸福そのものが道なのである。

【始めるから始まる】

すべて、初めは危険だ。

しかし、とにかく始めなければ始まらない。

【人生を最高に旅せよ】

知らない土地で漫然と行程を消化するだけが旅行だと考える人がいる。

買い物だけをして帰ってくるのが旅行だと思っている人もいる。

旅行先のエキゾチックさを眺めるのをおもしろがる旅行者もいる。

旅行先での出会いや体験を楽しみにする旅行者もいる。

一方、旅行先での観察や体験をそのままにせず、これから自分の仕事や生活の中に生かして豊かになっていく人もいる。

人生という旅路においてもそれは同じだ。

そのつどそのつどの体験や見聞をそのとき限りの記念品にしてしまえば、実人生は決まりきった事柄のくり返しになってしまう。

そうではなく、何事も明日からの毎日に活用し、自分を常に切り開いていく姿勢を持つことが、この人生を最高に旅することになうのだ。

【高まるために捨てる】

人生はそれほど長いものではない。

夕方には死が訪れても何の不思議もない。

だから、わたしたちが何かをなすチャンスは、いつも今この瞬間にしかないのだ。

そして、その限られた時間の中で何かをなす以上、何かから離れたり、何かをきっぱりと捨てなくてはならない。

しかし、何を捨てようかと悩んだりする必要はない。

懸命に行動しているうちに、不必要なものは自然と自分から離れていくのだ。

あたかも、黄色くなった葉が樹木から離れ去るかのようにだ。

そうしてわたしたちはさらに身軽になり、目指す高見へとますます近づいていくことになるのだ。

【少しの悔いもない生き方を】

今のこの人生を、もう一度そっくりそのまま繰り返してもかまわないという生き方をしてみよ。

【安易な人生を送りたいなら】

この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいというのか。

だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。

そして、いつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。

【脱皮して生きていく】

脱皮しない蛇は破滅する。

人間もまったく同じだ。

古い考えの皮をいつまでもかぶっていれば、やがて内側から腐っていき、成長することなどできないどころか、死んでしまう。

常に新しく生きていくために、わたしたちは考えを新陳代謝させていかなくてはならないのだ。

【計画は実行しながら練り直せ】

計画を立てるのはとても楽しく、快感をともなう。

長期の旅行の計画を立てたり、自分の気に入るような家を想像したり、成功する仕事の計画を綿密に立てたり、人生の計画を立てたり、どれもこれもワクワクするし、夢や希望に満ちた作業だ。

しかし、楽しい計画づくりだけで人生は終始するわけではない。

生きていく以上は、その計画を実行しなければならないのだ。

そうでなければ、誰かの計画を実行するための手伝いをさせられることになる。

そして、計画が実行されるようになると、様々な障害、つまずき、憤懣(ふんまん)、幻滅などが現れてくる。

それらを一つずつ克服していくか、途中であきらめるしかない。

では、どうすればいいのか。

実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。

こうすれば、楽しみながら計画を実現していける。

【子供に清潔観念を与える】

子供のうちに特に強くしつけておくべきは、清潔好きの感覚だ。

もちろんそれは、手を洗うことによって汚れや病気から身を守り、健康を保つことができるようになるからだ。

また、その清潔好きの感覚は、やがて他の精神的な面にも広まっていく。

つまり、盗みを働くことやその他の悪徳を汚れとみなす感覚へと高まりうる。

同じようにその子も、社会的人間としての鉄度、清純さ、温厚さ、よい品性などを好むようになるのだ。

こうして習慣となった清潔観念は清潔さを呼び、生きていくうえで幸福になる要素や契機を自然にわが身に引き付けるようになるのだ。

【所有欲に征服されるな】

所有欲は悪ではない。

所有欲は働いて金を稼ぐことをうながし、その金銭によって人は充分な暮らしを送れるばかりか、人間的な自由と自立さえ得ることができる。

しかし、人が金銭を使っているうちはいいのだが、所有欲が度を過ぎるようになると、人を奴隷のように使い始める。

もっと多くの金銭を得るために、ありったけの弛緩や能力をついやす日々が始まるのだ。

所有欲は、休みさえ与えてくれない。

こうして所有欲の手下となった人は、完全に拘束される。

内面の豊かさ、精神の幸福、気高い理想、といった人間としてたいせつなものは無視されるようになる。

あげく、金銭面だけが豊かで内面がごく貧しい人間が出来上がる。

だから、所有欲がどこで自分を征服しそうになっているか、よく注意しておかなければならない。

【いつかは死ぬのだから】

死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。

いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。

時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。

嘆きわめくことなんか、オペラの役者に任せておこう。

【人間であることの宿命】

この生の時間の中で多くの体験をしたあげく、わたしたちは人生を短いとか長いとか、富んでいるとか貧しいとか、充実しているとか空しいとか判断している。

しかし、自分の眼がどこまでも遠くを見ることができないように、生身の体を持ったわたしたちの体験の範囲と距離は、いつも限られているのだ。

耳も、すべての音を聞くことはない。

手も、すべてのものに触れることはできない。

それなのに、大きいだの小さいだの、固いだの柔らかいだの、と勝手に判断している。

最初から限界があるのに、自分たちの判断が間違っているかもしれないということに気づかないでいる。

これが、人間であることの大小さまざまな宿命だ。

↓ 参考書籍

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